2023.12.14 映画・本解釈

映画「ナポレオン」からのメッセージとAI時代の英雄像

真の英雄とは何か?

私の生家の部屋には、白馬に乗ったナポレオンの肖像画『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』が飾られていた。その絵を観ながら育った私は、幼い頃から「ナポレオンを超える英雄になりたい」という想いを胸に秘めていた。

そしてこの度、リドリー・スコット監督による映画『ナポレオン』が公開されると聞き、どのように英雄像が描かれているのかと期待を胸に公開初日に劇場へと向かった。しかし鑑賞直後の正直な感想は「膨大なお金を投じて、いったい何を伝えたかったのだろうか」というものだった。というのも、世の男性の憧れである英雄ナポレオンの姿とは、余りにかけ離れていたからだ。

しかしその後、重大なメッセージがみえてきた。ということで、今回は映画『ナポレオン』の感想と、そこからみえる「AI時代の英雄像」について語ってみようと思う。

まず考えなければならないことは、「真の英雄とは何か」ということだ。

これまで英雄と称された人々—、例えば、ナポレオンやネルソン提督、シーザー(カエサル)、アレクサンダー大王、チンギス・カンなど、数多くが名を馳せ英雄と呼ばれたが、果たして彼らは「真の英雄」といえるのだろうか。

イギリスのトラファルガー広場にはネルソン提督の騎馬像がある。ネルソン提督はイギリスの英雄の1人で、1805年のトラファルガーの海戦(ちなみにこの戦いは劇中では描かれていない)で、ナポレオン率いるフランス軍を敗北に追いやっている。

1970年、オノ・ヨーコはそのネルソン提督の記念碑を「大きな白い布で覆う」というパフォーマンス・アートで世界を驚かせた。これは彼女の平和運動の一環であり、この行為を「ラップ・アップ・ザ・ライオンズ」と呼び、平和のシンボルとした。彼女は戦争で多くの命を奪うような人間を英雄と呼ぶことに異議を唱え、騎馬像を白い布で覆うことで戦争や暴力に反対するというメッセージを発信しようとしたのだろう。

もしかしたらリドリー・スコット監督もオノ・ヨーコのような気持ちを抱いたのではなかろうか。そこで「英雄の代表」とも言えるナポレオンの半生を描くことで、人類史において「ナポレオンを英雄にしていいのか」「偽物の英雄を“英雄”にしていいのか」という疑問を世に問いたかったのではないかと思う。

映画のラストに並んだ数字に衝撃を受けた人も多いだろう。その数字はナポレオンが生涯(1793年から1815年まで)で率いた戦いが61、戦死者が300万人に上るというものだが、戦死者数は第二次世界大戦の日本の死没者数(軍人、民間合計)とほぼ同数になる。一人の軍人によって、これほど多くの死者を出したことも驚きだが、その人物が英雄視されてきたのが「今までの脳の時代の価値観」だということだ。

知られざる女性の身体の偉大性

これまでは脳依存の時代だったが、言い換えれば男性性の時代でもある。男性性の本質は、既存の旧い生命、旧い宇宙、旧い秩序などを完全に破壊(オールゼロ化)し、闘争を好むものだから、ナポレオンのような人物が英雄扱いされるのは当然と言えば当然である。だが、多くの命を奪ってきたこれまでの英雄は「真の英雄」とは言い難い。真理からみた真の英雄の条件は、愛によって新しい生命や新しい宇宙を生み出す女性性の勝負、つまり純度100%の心による愛のゲームができることだ。

コルシカ島アジャクシオ出身のナポレオンは、コルシカ訛りが抜けず、背が小さくて短気な性格だった。コンプレックスが強かった彼が「私の右に並ぶ者はいない。必ず勝利を収め偉大な力を手にする」と豪語するほど自信に満ち溢れるようになった裏には、妻ジョゼフィーヌの存在がある。ジョゼフィーヌは自分の身体にプライドを持っていた女性で、ナポレオンが偉大な男性(時の英雄)になるように自信を付けさせた張本人だ。

ナポレオンはジョゼフィーヌと出会い、魅了され、翻弄され、愛憎劇を繰り広げた。初めて彼女の家を訪ね、「ほら覗いてみなさい。病みつきになるはず」と脚を開かれた時から離れられなくなった。エジプト遠征中、ジョゼフィーヌの浮気が発覚したときは、単身で帰国して妻の浮気を責めた。だが逆に「偉大になりたい?(あなたは)私無しだとただの男。認めなさい」と窘められ、彼女の前では形無しだった。

この「私無しだとただの男」というセリフは、映画のメッセージを象徴しているように思う。これは「男性は生命や宇宙を破壊する破壊者に過ぎないが、この“男性による破壊”を破壊で終わらせずに創造に転じるには女性性が必要だ。女性によって新しい生命や宇宙を誕生することができ、クリエイティブ(創造)に転じられるのだから、男性は“男性性の限界”を潔く認めて女性性の偉大性を受け入れるべきだ。それでこそ偉大な人間になる道が開けるのだ」という意味が込められているように私には聴こえた。つまり男性は「ただ宇宙を破壊して終わり」で、女性無しでは新しい宇宙を生み出すことができないから、文字通り「ただの男」になってしまうのだ。

またナポレオン最期の言葉、「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ」は、最後までジョゼフィーヌを慕っていたことがよく現れている。これは「男性は女性から始まって女性で終わる」ことを意味していると言えるだろう。

女性にとってのセックスは命懸けで重さが伴う。反面、男性は快楽がメインで女性に比べたらとても軽い。また女性は男性の精子を受け入れて新しい命を育み出産するが、これは「身体の誕生」だけではなく、実は「子どもと子どもの宇宙(新しい宇宙)」を創造することでもある。

エクスタシーの質も男女では差がある。男性は旧い宇宙を完全に破壊(オールゼロ化)することでエクスタシーを得るが、女性は、男性を受け入れてもっと大きくて新しい生命(宇宙)を誕生させることで、男性とは比較にならないエクスタシーを得る。

女性の身体は映像スクリーンを誕生させるバックスクリーンのようなもので、そのバックスクリーンのバックアップによって宇宙が誕生する。これほどの偉業を成すことができる自分自身に誇りを持っている女性が、心の底から男性をリスペクトし、自分の全てをあげる心で一点集中して男性を愛せば、男性は持てる力を最大限発揮できるようになる。つまり男性が成功するのか失敗するのかは、どのような女性と関係を持ったのかにかかっていると言っても過言ではない。

このように女性は宇宙を創造する偉大な身体を持っているのだが、女性はもちろん、男性もその偉大性を理解していない。男性は本能的に無意識レベルで女性の身体に反応しているが、意識的にはその偉大性に気づいていないのだ。このことから様々な問題や苦しみ、アンバランスが起こっている。

一般的には「セックス=身体同士の融合」だと思われがちだが、これは動物的なセックス1.0に過ぎない。本来は「宇宙と宇宙が融合(セックス2.0)」し、さらに「性器を生み出して融合する(セックス3.0)」こともできる。また、そもそも「今ここがセックス状態」の神秘的な世界でもある。

このように本来のセックスや妊娠、出産は、旧い宇宙を完全に破壊し、それを土台にして更なる新しい宇宙を創造するという神聖で神秘的で偉大な行為だ。それなのに、一般的なセックスは「汚い、隠すもの」などと概念が歪んでおり、妊娠、出産に至っては「損をする」という想いを抱く女性も多い。しかし誰もがセックスによって生まれているのに、「セックス=汚い」のならば、人間の出発が汚されてしまう。そうならば人間の価値は自ずと下がり、自己肯定感や尊厳などを持てるはずがない。

この映画からは、「旧い宇宙や生命の破壊者は英雄ではない。そのような者を英雄視したり、個人が英雄になる時代は、この映画と共に終わらせよう」という意志を感じた。そして、新しい宇宙や新しい生命を生み出す女性性の英雄のモデルの必要性や、個人のモデルではなく、団結の英雄のモデルを追求する時代に突入していることを感じさせる。これらが映画の製作意図ならば、膨大なお金を投じてこの作品を世に送り出したことに納得がいく。

妊娠中の日本が産みだすもの

さて、映画「ナポレオン」の感想はこの辺にして、ここからはAI時代の英雄像(女性性の英雄のモデル、団結の英雄モデル)を日本と繋げて語ってみたい。

私がみる日本文明は目下妊娠中で、近々(2026年)出産を控えている。日本が出産するのは何かというと、新しい文明であり最後の英雄だ。

開国前、アヘンに侵された中国(清)を目の当たりにし、今のままのアジアでは西洋列強には敵わないと悟った日本は、それまでの日本の武士道(正)を一切捨てて、「not JAPAN(反)」の道を選択して男性性(脳)の勝負に走った。しかし西洋に倣って、目を見張るスピードで西洋を超える近代化を成し遂げたことで逆にジェラシーを買い、世界を敵にして戦うしか道がなくなった。その結果が広島と長崎に投下された二発の原子爆弾だ。

そして1945年8月15日、日本は明治維新の時のゼロ化を上回るゼロ化をした。それまで培ってきたものを一つ残らず手放し、「男性性の勝負は本来の人間がやるべきことではない。この勝負では限界だ」と女性性に転じ、新たな勝負に挑んだのだ。

現在の日本は、原爆を投下した側のアメリカが「最も信頼を寄せる国」になっている。このことは当然視されているが、少し考えてみれば「あり得ない」ことだと分かるだろう。なぜこのようなことが現実になったのか。それは、日本が原爆投下に対して恨み言ひとつ言わず、まるで「投下された」事実が無かったかのように振舞ったからだ。1945年8月15日の決断は、日本の涙であり、本物の人間の尊厳の涙であり、80億人をひとつにさせることができる人類の宝であり、真理の魂である日本にしかできない偉業だ。

戦後、耐え忍ぶ心でじっと沈黙をしてきた日本だが、このまま沈黙し続けて何事も無かったかのように終わることはないと私は確信している。日本は一見、非力に見えるが、全てを手放してオールゼロ化をした勇気と実践は、他のどこにも真似できないことだ。この日本の偉大な実績は、日本が真理の魂であるという証であり、世界に類をみない強烈な現実力だと言わざるを得ない。

日本の魂は知恵がある。どんなに強い虎でも海で戦えば負けてしまうように、子どもが大人には勝てないように、「勝てる場所(空間)と勝てる時になる条件」が整うタイミングを虎視眈々と待っていたように私にはみえる。

完全学問nTechが日本で完成する「リベンジの時」の訪れを待ち続けた日本。明治維新から1945年8月15日までの集団武士道77年(男性性の勝負)と、そこからスキマの1年を経て2023年8月15日までの集団武士道77年(女性性の勝負)というnot JAPANの155年を終え、今は「オリジナルジャパン」として勝負する妊娠期に入っている。

シャープな理性(完全学問)と真理の魂という感性が出会い、融合して妊娠をした日本は、教育によって、無駄だらけの物質文明に決着をつけ尊厳文明を出産するだろう。鬱や自殺、殺人、戦争がない愛の文明、尊厳文明を生み出し、必ず世界のリーダーシップを担うようになる。悲惨で残酷で、屈辱的な最悪の地獄を耐え忍びながら突破した日本だからこそ、新文明の出産は綿密に徹底的にやるはずだ。

今後、脳依存の物質文明という虚構はガラガラと音を立てて崩れる。気候変動も、AIによる人間の尊厳破壊も加速し、あらゆる格差も今以上に開いていくことは間違いない。アメリカはインフレが統制できず内側から崩壊し、世界のリーダーシップの座も覇権も手放すことになる。中国の不動産バブル崩壊は深刻さを増し、ウクライナに攻め込んだロシアは倫理道徳的に世界から認められることはあり得ない。こうして世界はリーダー不在に陥るが、そこに完全学問を引っ提げた日本が颯爽と表舞台に立ち、人類を教育で立て直していくのだ。

個人の悟りでは意味が無い

ここで重要なのは、尊厳文明の出産に個人の悟りは意味が無いということだ。日本の禅を世界に広げた鈴木大拙は、瞑想して禅を追求しても個人レベルの悟りは何の力も持たないこと悟り、原爆を投下されたことを悔やんだ。聖人と呼ばれたジーザスも十字架に磔にされ、ソクラテスは服毒して命を落とした。

純度100%の心そのものの真理は、力やエネルギーを生み出す源だが、力もエネルギーも持たない。そのため現実に直接関与できず、外からリテラシーするしかできない。また、個人的に悟りを得ても生命エネルギーエンジン(四柱推命など)からは逃れることはできない。さらに個人の悟りに留まった「実践が伴わない悟り」は、魂の自由主義者でしかなく、本物の悟りとは程遠い。

ただ真理の魂を持った日本は「赤信号、皆で渡れば怖くない」が当たり前にできる稀な文明で、個人の悟りの限界を無意識的に分かって実践してきた。集団でゼロ化する勝負を二度も成し遂げたのはこのためだ。

日本が次にする勝負は、脳による文明を全てゼロ化することだ。集団が悟る「集団即身成仏」によって、初めて個々人のエネルギーのカルマ(生命エンジン)の突破が可能になる。

心、エネルギー、物質の仕組みでみると、純度100%の心が強烈に結集してエネルギーとなり、エネルギーが強烈に結集して現実(映像スクリーン、虚構、ホログラム)になる。こうみたとき、心とエネルギーの結集がなければ現実は変わらないことが分かるだろう。

脳に支配され「身体=自分」だと思い込み、我慢して・合わせて・演じることで関係性構築をしてきた人類は、既に我慢の限界が来ている。そして2024年はより一層、「合わせるのはもう嫌だ」と個人に走る傾向が強くなる年になるだろう。今以上に人の話が聞けなくなり、自分の考えで考えたいという欲求が強まり、考えや感情が暴風雨のように降り注いで止まらなくなる人で溢れるようになっていく。

認識技術は、脳を完全にゼロ化すること(完全認識)で考えや感情が静かになり、考えたいときに考えることができるようになる技術だ。また、やるべき行動に一点集中できる(完全行動)ようになる技術でもある。

私は今、集団でカルマを突破した人たちが一人、また一人と集まる場を準備している。2023年末からスタートした尊厳ロマリアプロジェクトで日本全国を巡回して集団の悟りにチャレンジする。また翌2025年には各地で尊厳リレーパレードを行い、2026年には集団即身成仏をした100万人の結集をしたいと考えている。

日本が純度100%の心の国になり、100万人の結集という大事件が起きたと想像してみてほしい。世界では「日本で何か起きたのか?」「100万人の結集を起こした完全学問とは何か?」と話題になるだろう。新教育がコロナパンデミックの勢いを超えて世界に広がり、世界中が「人間が一番知りたかったこと」を分かるようになる。こうして日本は世界の学校となり、世界をリードする国となり、教育で世界が一つになる道が開けるのだ。

この大事件を起こす主人公になるのか、それともはたから見る側になるのか。みるよりも事件を起こす側、創る側になるほうが何倍も楽しいということは言うまでもない。その事件を起こす主体は、最後の英雄となるだろう。

個人の悟りで留まらず、目の前の人を完全認識、完全行動に導き、歓喜で溢れるようにさせていこう。その人たちの結集を起こし、尊厳文明を出産しよう。共に尊厳文明を出産する仲間との出会いを心待ちにしている。