2023.08.21 映画・本解釈

【ネタバレあり】nTechからみた映画『君たちはどう生きるか』の解釈

宮﨑駿監督のプライドを賭けた作品

今回は7月14日に封切られた映画『君たちはどう生きるか』をnTechから紐解いてみようと思う。公開前の情報はキービジュアルのみ。宣伝も予告もティザーもなく、ストーリーも声優もシークレットという徹底ぶりに、謎が多い作品と話題になった今作。公開から約1か月後に発売されたパンフレットにも僅かな情報しかなく、各々の解釈に委ねているようだ。監督や公式の意図通りに前情報なしで楽しみたい方は、鑑賞後に読むことをお勧めする。

初見で感じたのは「ただの作品は世に出したくない」という宮﨑駿監督のプロ意識とプライドだ。実際、パンフレットにも「時代に迎合した映画を作ってはならない」とあるらしい。

2016年の企画段階では「作るのに3年はかかるだろう。3年後、我々はどんな状況下の、どんな気分の人々に出会うのだろう。今のぼんやりと漂っているような、形のはっきりしない時代は終わっているのではないか。もっと世界全体が揺らいでいるのか。戦争か大災害か、あるいは両方という可能性もある。戦時下を舞台にした映画。時代を先取りして作りながら、時代に追いつかれるのを覚悟して作る映画」とあるそうだ。3年ではなく7年の歳月を費やして製作されていることからも、相当な覚悟で臨んだ作品だと窺い知れる。

映画の考察として多いのは、宮﨑駿監督の半自伝的な作品で、過去作を織り交ぜたようなものという見方だ。パンフレットの作品解説にも「“君たちはどう生きるか”は、宮﨑駿監督が少年時代に母から手渡された同名の小説『君たちはどう生きるか』からタイトルを借り、これまで描いてこなかった自身の少年時代を重ねた自伝的ファンタジー映画です」とあるそうだ。

ただ私自身は監督の過去作に触れたことがなく、監督の少年時代なども知らない。また、原作になったと言われる2冊の本(『君たちはどう生きるか』『失われたものたちの本』)も未読だ。よって予備知識ゼロの白紙状態で独自解釈を展開しようと思う。

まず初めに、この映画のメッセージを一言でシンプルに表現すると「輪廻転生をする生き方か、それとも悟って生きるのか」になる。

生き方を三通りで整理すると、ひとつは「マイナス思考で生きる」、二つ目は「マイナス思考をプラス思考に変えて生きる」、三つ目は「プラス思考でもマイナス思考でもなく、オールゼロ化して源泉動きだけで生きる」となる。

前者二つなら輪廻転生を繰り返す。だが三つ目は、自分自身の運命を受け入れて愛し、アモールファティをして、輪廻から自由になることができる。この三通りの生き方のうち、あなたはどれを選ぶのか、あなたならどう生きるのかを問うているのだ。

『君たちはどう生きるか』あらすじ

映画は空襲警報のようなサイレン音から始まる。主人公の少年・眞人の母の病院が火事に見舞われ、眞人は病院へ一目散に駆けつける。だが、母を助けることができず、母を失ってしまう。

時は戦時中。眞人は戦争の3年目に母を亡くし、4年目に父と東京を離れて鷺沼へ向かった。そこに母とそっくりの女性、夏子が現れる。夏子は母・久子の妹で、眞人の新しい母になるという。お腹にはすでに赤ちゃんを身ごもっていた。

©2023 Studio Ghibli

父・正一は軍用飛行機関連の工場長だった。軍需産業で忙しいが、お陰で家は潤っていた。夏子と眞人は屋敷に行く。すると、覗きやのアオサギが屋敷の軒下を飛び去った。屋敷には7人のばあやたちがおり、父の土産物を漁って歓喜している。

©2023 Studio Ghibli

夏子と眞人は新居となる離れの洋館へ行く。部屋に着くと眞人はすぐに眠りに落ち、母を亡くした火事の夢をみた。「かあさん!」と叫ぶも、母は「眞人、さよなら」と消えていく。

目覚めた眞人はアオサギを追い、敷地内の塔に着いた。夏子やばあやたちが自分を探す声が聞こえたが、無視して塔に入ろうとする。でも入り口が塞がれ入れない。塔で拾ったアオサギの羽はいつしか消えていた。

夏子曰く、塔は大叔父が建てたものらしい。大叔父は頭が良く、本を読み過ぎてヘンになり、読みかけの本を開いたまま消えたとのことだ。

夜、父の帰りを待っていた眞人は、帰宅した父と夏子がいちゃつく姿を見てしまう。

翌朝、父の車で学校へ向かった。転校先の同級生たちは「堆肥増産計画」と勤労奉仕をしていた。だが、眞人は一緒にやらずに帰宅しようとして言い合い、ケンカになる。ケンカでは大したケガはしなかったが、石で自分のこめかみを殴り、流血して屋敷に帰る。

屋敷は大騒ぎ。父は「誰にやられたんだ。お父さんが必ず敵を討ってやるから」とまくしたてる。

©2023 Studio Ghibli

傷の手当が終わって眠ると、アオサギがきて「眞人、助けて!」「お母さん、お母さん」と眞人の夢での声を口にした。

眞人は部屋を出て木刀を持ち出し、アオサギを攻撃する。「お前は何者だ。ただのアオサギじゃないだろ!」と叫ぶと、アオサギは「どうやら長い間待ち続けたお方が現れたようだ。いざ母君の元へご案内しましょうぞ」と返した。アオサギは眞人の母が生きていて、母が助けを待っていると言うのだ。

©2023 Studio Ghibli

夏子とばあやたちは眞人を捜し、夏子はアオサギに向かって矢を放った。その後、気を失った眞人はベッドで目覚めた。

©2023 Studio Ghibli

父から夏子の具合が悪いから見舞うようにと言われた。ばあやから「つわり」だと聞き、眞人の母の時もつわりで苦しんだと言われ、眞人は夏子を見舞うことにした。夏子は眞人に向かって「ごめんなさいね、こんな傷をつけてしまって。お姉さまに申し訳がないわ」と涙を流した。

眞人は付きまとうアオサギを追い払おうと弓矢を作った。矢尻にアオサギの羽を付けると、矢は急に力を増した。窓の外をみると夏子が森の中へ入っていった。

机に積み上げられた本が崩れた際、『君たちはどう生きるか』の本を見つける。開くと「大きくなった眞人へ」と母からのメッセージがあった。眞人は本を読み、号泣する。

ばあやたちは夏子を捜索していた。眞人も一緒に捜すことにした。塔に着くとアオサギが壁から出てきて「待っていた」と言う。一緒にいた婆キリコは眞人を止め、塔の主の声はお屋敷の血を引くものにしか聞こえないと言い、眞人は「なら僕がいくしかない」と返答した。だがキリコは「駄目です。あなたは夏子お嬢様がいないほうがいいって思っているでしょ。それでも行くなんておかしいよ」と再び止める。結局、母がいるというアオサギに導かれて中に入っていった。

奥には母が横たわっていた。眞人が触ると、母は水のようなものに溶けてしまう。怒った眞人はアオサギに矢を放ち、命中して飛べなくなる。眞人はアオサギに夏子さんのところへ案内するように言うが、アオサギは「いかねえほうがいいと思いますがねえ」と言い出す。

そこへ1本のバラが落ちてきた。大叔父らしき人物が現れ「愚かなトリよ。お前が案内者になるがよい」と言い、アオサギ、眞人、キリコは下の世界へと向かうことになった。

海に出た眞人は門を見つける。そこには、“我を学ぶものは死す”とあり、ペリカンが押し寄せて門が開いてしまう。眞人はペリカンに襲われるが、眞人を助けたのはキリコと同じ柄の着物を着た女性だった。

©2023 Studio Ghibli

彼女は「みんな幻だ。この世界は死んでいるやつのほうが多い」と言った。眞人の名前を聞くと「どうりで死の匂いがプンプンしてる」と言い放った。生き物を殺生できるのは彼女だけだそうだ。

2人は大きな魚を解体した。魚の臓物は“わらわら”の滋養だという。

©2023 Studio Ghibli

眞人は捌く際に臓物をぶちまけ、気を失った。目が覚めると彼女の部屋にいて、屋敷のばあやそっくりの人形に囲まれていた。そして食事や水を与えてもらった。

外に出るとわらわらたちが膨らみ、二重螺旋を描きながら上に飛んでいった。わらわらは眞人のいた世界で人間として生まれると言う。彼女は「腹いっぱい食わせてあげられて良かったよ」と涙した。

だがそこにペリカンたちがやってきて、わらわらを食べだした。そこにヒミが現われ、火を放ってペリカンを燃やしたが、同時にわらわらも燃やしてしまった。

眞人は、翼が折れた老ペリカンを見つけ、彼らの行いを責めた。老ペリカンは「我が一族は、わらわらを食うためにこの地獄に連れてこられたのだ。この海はエサになる魚が少ない。一族は皆、飢えた。わしらは高く舞い上がった。翼の続く限り、高く、遠く。だがいつも同じだった。この島に辿り着くだけだった。生まれる子は飛ぶことを忘れ始めた。わしらはわらわらを食う。火の娘がわしらを焼く。ここは呪われた海だ」と言い残して息絶えた。

©2023 Studio Ghibli

婆キリコと同じ着物の女性は、若キリコだった。アオサギと眞人は、再び夏子を探す旅に出たが、キリコはわらわらの世話をするために残った。

©2023 Studio Ghibli

一方、上の世界では父とばあやたちが消えた3人を捜していた。ばあやが正一に向かって塔について話しだした。あの塔は人が建てたものではなく、ご維新(明治維新)のちょっと前に空から落ちてきた。それを大叔父が見つけ、貴重なものだからと建物で覆った。だがその時、大勢が命を落としたという。また眞人の母・久子も1年ほど失踪し、戻ってきたときは失踪した時と同じ姿で、何も覚えていなかったと言った。

眞人とアオサギは鍛冶屋の家に着く。夏子のところに行くには、その家を通らなければならないが、なぜかインコが占拠していた。アオサギがインコの目を逸らすうちに眞人が家に入るが、中にはインコが大勢いた。インコは眞人を食べようとし、「夏子様は赤ちゃんがいる。赤ちゃんは食べない。お前は赤ちゃんがいないから食える」と迫った。そこにヒミが現われ、眞人は助けられた。

眞人はヒミに「夏子を探している」と言うと、ヒミは「夏子?妹か?」と言い、自分の家に連れていった。その塔はお屋敷にあるのと同じで、いろんな世界に跨って建っているという。ヒミは眞人にバターとジャムがたっぷりのパンを食べさせ、眞人は「母さんのパンみたいだ」と喜ぶ。

©2023 Studio Ghibli

ヒミが「夏子は母さんか?」と訊ねた。すると眞人は「夏子さんは父さんが好きな人。僕の母さんは死んだ」と答え、ヒミは「私と同じだ」と言った。

ヒミと眞人は時の回廊へ行った。そこには扉がたくさんあり、上の世界と繋がっていた。ヒミは「帰りたければ、このドアを開ければすぐ帰れる」と言うが、眞人は「夏子さんがまだだ。僕だけでは帰れない」と言った。だがヒミは「夏子は帰りたくないと言っている。赤ちゃんを産むんだ」と返した。

ヒミは眞人を夏子のところへ案内した。そこは「産屋」で入ることは禁忌だった。眞人に気づいた夏子は「あなたなんか大っ嫌い!出て行って!帰りなさい!早く!」と眞人の迎えを拒絶し、眞人は「夏子母さん!帰ろう!」と、“母さん”と呼んだ。夏子は「眞人さん、逃げて!」と、なおも追い払おうとする。

ヒミは「大いなる石の主よ。我が願いを叶えたまえ。そこに伏す我が妹を、息子となるものの元へ返したまえ。夏子、ここへおいで」と言って気絶してしまう。

眞人は大叔父と夢の中で対面する。大叔父は「私の世界、私の力は、すべてこの石がもたらしてくれたものだ」と言った。また、世界をつくるのは道半ばだから、継ぐものを求めているという。継ぐ者は血を引くものでなければならず、それは石との契約だった。そして、世界が美しくなるか、醜くなるかは眞人にかかっており、積み木を1つ足すことができると言った。

眞人は積み木をみて言った。「それは木ではありません。墓と同じ石で悪意があります」と。大叔父は、それがわかる君だからこそ継いでほしいと返した。

©2023 Studio Ghibli

眞人が目覚めるとインコに捕まっていた。眞人はアオサギに助けられ、インコに捕まったヒミを助け出そうとする。

©2023 Studio Ghibli

ヒミはインコに連れられ大叔父の元にいくところだった。アオサギは、石のなかはインコで一杯だから、禁忌を犯したことを口実に、創造主である大叔父に取引を持ち掛けるつもりだろうと言った。眞人とアオサギも大叔父たちの元へ向かうことにした。

向かう途中でヒミと眞人は再会した。その時、眞人は密かに石を拾う。

©2023 Studio Ghibli

大叔父と眞人は対面した。大叔父は、はるか遠い時と場所で見つけてきた“悪意に染まっていない石”をみせ、全部で13個あるから3日に1つずつ積み、悪意から自由で豊かで平和な世界をつくれと言った。

だが眞人は、自傷した傷をみせて「自分でつけた悪意の印」だと言い、夏子母さんと自分の世界へ戻ると後継ぎを断った。

大叔父は、殺し合い奪い合う愚かな世界に戻るのか?と問うが、眞人は「友だちを見つける」と言った。

この様子をみていたインコ大王は裏切りだ!と怒った。「閣下はこんな石ころに帝国の運命を預けるつもりか!」と石の塔を崩してしまい、それによって世界は崩れ去った。

眞人、ヒミ、アオサギは崩壊した世界から抜け出すことに成功し、時の回廊に着いた。ヒミが気になった眞人は、後にヒミが火事で死んでしまうことを伝えて戻るのを止めた。でもヒミは「眞人を産むなんて素敵じゃないか」と戻ることを選択した。

若キリコが夏子を連れて現われた。眞人、夏子、アオサギの3人は132の扉から、ヒミと若いキリコは559の扉から現実に戻った。

現実に戻った眞人は異世界での出来事を覚えていた。向こうの世界で拾った石を持ち帰っていたのだ。

戦争が終わって2年後、東京に戻る日が来た。父・正一と母・夏子、そして弟と一緒に戻るところで映画は幕を閉じる。

眞人の問題意識に対するリテラシー

前述した通り、この映画のメッセージは「輪廻転生をするか、それとも悟るのか」だ。因果アルゴリズムの輪廻の物語に支配され、現実を忌み嫌い、いがみ合って生きるのか?もしくは、無理やりプラス思考に変えて妥協して生きるのか?それとも「出来事は重要ではない」と、運命を丸ごと受け入れアモールファティをし、自分自身で解釈して生きるのかだ。

まずは「眞人の問題意識」からみていこう。眞人は火事で病気の母を亡くした。母を助けられなかったことを悔やみ、また、母の病気や死は、自分が良い子でなかったからではないかと自責の念に駆られている。だから、名に恥じない真っ当で礼儀正しい人間であろうとする姿が垣間見える。

また、眞人は父親も責めていた。父はなぜ、母を助けられなかったのか、なぜ母の死後1年も経たないうちに再婚して妊娠までしているのか。自分だけさっさと母の死を消化し、母の妹を愛している父が、どうにも受け入れられずにいる。

さらに、自分の生活にも矛盾を感じていた。父の軍需関連の仕事のお陰で裕福な暮らしを享受しているが、お金や権力で問題解決を図ろうとする父に納得できない。だが現実では、父と継母に依存して生きねばならない。また、平和を望みながら戦争産業で生きる自分とは何なのだろうと矛盾に悩み葛藤する。

眞人は、父が自分の心に寄り添わないことへも憤りを感じている。父や継母に対して不信感や猜疑心を抱いてしまう自分の考えや感情にも苦しむ。もちろん、新しい母になる夏子に対しても心がいかない。そんな悩みや孤独を抱えている辛さを誰も分かってくれないと反発し、ばあやにも「(食事が)おいしくない」などと攻撃してしまう。

当時の日本は、家の資産崩壊を防ぐための「逆縁婚(配偶者の一方が死んだ場合、死んだ配偶者の兄弟または姉妹と再婚すること)」が比較的あったそうだ。また、子宝に恵まれることが重要な時代で、生存戦略でもあった。眞人の母は病気だったから、2人目は望めない身体だったのかもしれない。屋敷は久子(母)と夏子が育った家だったことから、恐らく父は婿養子で、飛行機工場を守るための家柄の結婚だったのだろう。

ただ、少年・眞人には、このような大人の事情は分からない。眞人からみれば、父が母を捨て、不倫に走ったと疑うのも無理はない。ましてや、早々に妹か弟が生まれるとなると「自分はいらない存在なんだ」と自分の存在価値を失ってしまいやすい。

学校にも馴染めず、友だちもいない孤独の中、父に関心を持ってもらおうと自傷するも、父は眞人の心に関心がない。ただ、夏子が「傷をつけてごめんなさい」と眞人の心への理解を示したことで、眞人の心は少し開く。また、夏子が苦しむ「母同様のつわりの痛み」にも感じるところがあったようだ。

眞人は考えた。いつまでも父や継母を疑い、心を閉ざして友だちもつくらず、孤独なままでいいのか。母の面影にすがっていていいのか。

そこで出会ったのが、母のメッセージが遺された『君たちはどう生きるか』だ。眞人が泣いたシーンは、主人公コペル君が友だちとの約束を破り、嘘をついてしまうというところだ。コペル君が自責の念に駆られていたとき、叔父さんは「人間の悩みと、過ちと、偉大さ」という内容をノートに記してコペル君にアドバイスを送る。その内容に心を動かされたコペル君は、英雄的精神で手紙を出して友だちに謝るという内容だ。

ここから眞人は一変、活発になった。本の内容を母からのメッセージとして受け取り、輪廻人生をストップして新しい道をいく決断をしたようだ。

現実という「結果」には必ず「原因が」ある。だからそのことを探ってみようとしたのだ。眞人は「思い込みの世界」を通して、ああじゃないか、こうじゃないかと探る旅をスタートさせた。

君たちはどう生きるか

脳機能が働く「現実出発思考」は、すべてが不完全で、カルマ(輪廻転生)のエンジンから抜け出せない。また、常にマイナス連鎖の延長で起きるため、何を得たとしても満足できない現実になってしまう。だから「出来ない・足りない・分からない」を繰り返し、延々と「何かが足りない、満たされない」をループするしかない。

この問題をクリアするには、母の観点、夏子の観点、眞人自身の観点など「無意識に働いているエンジン」を知り、正しく絶望する必要がある。異世界はその無意識エンジンの表現だ。

この映画の構成は、以下の段階(1・5・1)で整理できる。

1:戦時中、軍国主義の日本。軍需産業で潤う家と平和を望む心との矛盾や葛藤
場:母の喪失、自責の念(自己否定)、母の面影から自由になれない
粒子:父や継母への抵抗、他者への攻撃。愛されない・愛されたいという葛藤
力:母が残したメッセージと出会う。輪廻人生をストップして新しい道をいく決断
運動:自分や他者のルーツを探り紐解く。観点の地獄(塔の中の異世界)への旅
量:アモールファティの決断。悪意(脳、詐欺)も受け入れ、友を作り楽しんで生きる
ホログラム:脳と心を同時に使い、自分のゲームをやる現実のスタート

私は、塔の中の異世界は「観点の地獄」であり、六道輪廻の段階として整理してみた。仏教の六道輪廻は「死後の6つの世界」だが、nTechでは「肉体が死んだ後の地獄」ではなく、現実でいつも輪廻しているものと捉えている。脳の観点、自分の思い込みという機械的条件反射のパターンは、いつでも輪廻し続けているのだ。なお、パンフレットには「少年・眞人は母を追って、生と死の世界へと向かった。そこは死が終わり、生が始まる場所だった」とあるようだ。

異世界の塔に入るトンネルに書かれていたフランス語「fecemi la divina podestate,(聖なる威力、比類なき智慧)」は、ダンテの叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する「地獄への入口の門」の一節だ。ウィキペディアによると『「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文でよく知られており、深い絶望をあらわす表現としても用いられる』とのことだ。

眞人は自分や他者を欺き続ける輪廻人生を止めるため、絶望から目を逸らさずに正しく深い絶望をする決意をしたのだろう。

ところでアオサギとは何だろうか。今回のキービジュアルであるアオサギは、眞人に意地悪をしたかと思えば、友だちになったりもする。また塔の案内役でもある。

あのアオサギを「眞人自身」だと整理したらどうだろう。眞人の無意識の観点であり、イマジナリーフレンド(空想上の友だち)として対話しながら旅をしているのだ。

また、自身を欺く「詐欺(サギ)」の言葉遊びもありそうだ。作中でも「すべてのアオサギは嘘つきだとアオサギはいった、それは本当か、嘘か」というパラドックスがあったように、心を押し殺し、自身を欺いていたという眞人の象徴ではないだろうか。話が進むにつれ、猜疑心が薄れてアオサギと心が通うようになっていくのはそのためだ。

エジプト神話でのアオサギは、聖鳥ベヌウのモチーフだ。朝生まれ、夕暮れと共に死に、次の朝に再び生き返る。つまり「生と死を繰り返す」ことから、脳(因果、始まり終わり)や輪廻転生の象徴とも言える。また、転居先が「鷺沼」なのは、サギ(偽り/脳の観点)の沼に入るという意味と捉えることができる。

では、六道輪廻を1つずつ見てみよう。

  • 地獄道(1):死にたくないのに殺される。肉体だけでなく、考えや感情、観点なども殺される
  • 餓鬼道(場):出来ない・足りない・分からない。何をどれだけ得ても、満たされず飢えている
  • 畜生道(粒子):好きなものに執着。再び痛い目に合うことが分かっていても、止めたくても止められない
  • 修羅道(力):自分の観点が正しい、自分が絶対だと観点を振りかざして争う
  • 人間道(運動):ジェラシー、相対比較。人の成功を心底喜べずに足を引っ張る
  • 天上道(量):ある程度は上手くいくため、中途半端な希望に留まり、限界を感じにくい
  • 結果(ホログラム):正しい絶望。異世界(観点の地獄)から出る決断

まずは地獄道だ。最初に辿り着いた異世界は、ヒトラーが好んだ画家ベックリンの代表作「死の島」という絵画がモチーフになっている。金色に光る門には「我を学ぶものは死す」とあり、大きな墓には、過去に葬り去られた真実や悪意の歴史が眠っている。
キリコは「全て幻。死んだ者が多い」と言い、眞人の名前を聞いて「死の匂いがする」とも言った。これは、脳の観点のなかは全て錯覚、幻であり、脳の観点につかまれている限り、常に殺される運命にある地獄であることを現わしている。

「我を学ぶものは死す」とあるのは、観点の地獄を認識して正しく絶望したとき、中途半端な死ではなく「完全死」ができるようになる、つまり「生きたまま死ぬこと(即身成仏)」ができるようになると解釈できる。

脳に支配されてきたこれまでの人間は、時間・空間・存在があるのが当たり前だと疑わない。しかし脳の観点を超えたら、実在するのは「今ここ」しかないと認識できる。「今ここ」しかないのに「今ここ」が無く、過去・現実・未来という時間のなか、考えのなかに束縛されるのは、とてつもない地獄なのだ。イエス・キリスト(ジーザス)は現実のことを「お墓」と表現したが、正しい絶望は今ここが最悪の難病「認識疾患」であると認識することだ。

餓鬼道は、常に満たされない状態だ。お腹を空かせた「わらわら」は人間に生まれ変わるが、人間に生まれたとしても、脳の観点につかまれたら直ぐに「出来ない・足りない・分からない」と餓鬼になってしまい永遠に輪廻する。

畜生道の象徴はペリカンだ。ペリカンがわらわらを食べ、ヒミがペリカンを焼くことを繰り返していた。眞人はペリカンの行為が悪だと決めつけたが、生存のためやるしかなかったのだと知る。そして脳の観点につかまれた「生存への執着」の涙を知り、ペリカンを埋葬した。また、眞人は母の面影にすがり執着していたが、それによって辛い思いを繰り返していたことも知る。

修羅道の象徴はインコたちだ。インコは国家やナショナリズムの象徴としても使われる。パンフレットには「大衆の戯画としてインコ達を率いるインコ大王」とあるようだ。脳の観点につかまれれば、生存欲求に支配される。食事や浪費、労働に明け暮れるインコの姿はまさにそれを描いている。インコたちの欲は留まることを知らず、延々と領土を広げていこうとして争いを続けるのだ。

人間道の象徴は眞人だ。生まれてくる弟か妹に嫉妬し、同級生たちと相対比較をし、父と継母が愛し合っているのが許せない。

天上道の象徴は大叔父だ。肉体が死んでも脳の観点から自由になれないように、138億年繰り返してきたカルマ(輪廻転生)であり、眞人の前世にあたるもの。つまり、脳の観点の根っこの象徴だと言える。
大叔父が作った世界はメタバースのようなものだ。好き勝手に思い描けるが、自身の脳の観点を強めるだけの妄想世界でしかない。延々と繰り返し強固になり、そこには誰も入り込めない。自分だけの孤独の世界だ。

こうして眞人は観点の地獄に「正しい絶望」をし、すべてを受け入れアモールファティをした。脳の外に出て、脳の世界も存分に楽しむ決断をしたのだ。戦争や悪意のある世界でも、過ちがあったとしても、勇気を持って自らの物語をつくり、友だちをつくっていこうと決意した。

また、眞人はそれぞれの観点を理解することで癒しが起きた。後の母となるヒミが「例え火に焼かれて亡くなろうとも、こんな子を産めるなら…」と運命を受け入れて現実に戻り、眞人を導くために「君たちはどう生きるか」の本を遺したことが分かった。夏子も家を守る重圧や、眞人に恨まれる辛さを抱えていたという涙を知った。

脳の世界は、始まり(α)と終わり(ω)があるので、必ず「生死」「因果」が存在する。この脳に依存し、因果論理に支配されていれば、争いが生じることは人類史を見れば明らかだ。だから現実から出発すれば、人生はうまくいかない。そして今、人類は「集団自殺」コースを歩んでいる。

この映画では「輪廻転生の人生はこんなもんだ」と、輪廻の地獄を次から次へと見せてくる。まず眞人は、輪廻を整理してマイナスをプラスに転換した。そして正しい絶望を経て、アモールファティに至った。

大叔父の積み木(石の塔)は、脳の観点のなかの孤独で勝手な妄想の世界だ。脳の観点のなかは必ず争いが起きる。その争いを終わらせる唯一の方法は脳の観点の外にでることだ。

「始まりと終わり、生死がある脳の世界」に、「始まりも終わりもない」方を付けて片づけること。それにより争いを終わらせ、ゲーム感覚、祭り感覚で生きる。人間の脳機能の1兆倍に進化するAI時代に突入した今は、脳を超え、認識疾患を治癒した新人類の生き方が必要だ。

アオサギは眞人に「母は生きている」と言った。脳に支配されていればさっぱり分からないが、一度存在したものは二度と無くならずエネルギー化される。エネルギーは様々な形で輪廻転生して六道輪廻をする。それらを全て使って物語を作る主人公が本来の「人間」だ。

始まりも終わりもない世界に至ったとき、「自分」に対して正しい認識ができるようになる。脳に支配された人間は「自分」をリアリティだと思うが、実は「自分」はリアリティではなく、物語の主人公なのだ。

リアリティとして捉えた「自分」は、不可能性そのものだ。皮膚に覆われた内側が自分で、その身体が独立して存在していると思うのは壮大な勘違い。光も酸素も水一滴すらつくれないのだから、独立した存在は絶対に不可能であり「不可能性そのもの」でしかない。その不可能性そのものを全否定したのが、無限大可能性。脳が一切関与できない純度100%の心そのものであり、始まりも終わりもない世界。ただこの「無限大可能性」は、それだけに固定されて変化できないという不可能がある。無限大可能性が、物語の主人公として不可能にチャレンジし、成功したのが「自分」という存在なのだ。

無限大可能性は全てを使って自分の物語を作ることができる。自分が物語を設計し、自分がつくった物語を愛するアモールファティ。

この映画は反戦映画でもある。人類は今こそ脳による争いゲームに終止符を打ち、純度100%の心になってアモールファティをするときだ。生死を超え、集団で即身成仏をして、戦争不可能な人を生み出す生き方の選択。「始まりと終わりがある輪廻する脳の観点」に、「始まりも終わりもない純度100%の心」という方を付けて片づければ、自在に塔をつくることができるようになる。さて、あなたならどう生きるか?