私たち人類の祖先はラテン語のサペレ(sapere / 知る、理解する、分別を持つ、知恵を持つ)を語源にホモ・サピエンス(Homo sapiens / 賢い人間)と自らを名付け、その賢さを自負してきた。他の追随を許さないほど言語を進化させ、動物や他の人類種との闘いに勝ち、数学や物理学などの学問や科学技術を生み出して知能や知性を誇りに持ち、地球の覇者として君臨してきた。そして地球上での地位が不動であることを疑わなかった。
だが、自らを「ホモ・サピエンス」だと名乗れなくなる日が刻一刻と迫っている。人間の知能を超える生命体に出会ったことがなかった人間は、今やその地位を覆される一歩手前まできているのだ。
2005年、人工知能(AI)研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル氏は「2029年にAIが人間並の知能を備えるようになり、2045年にはシンギュラリティ(Singularity / 技術的特異点)が訪れる」と唱えた。そして2022年、メディアアーティストでありデジタルネイチャーを提唱する落合陽一氏は、先日公開した動画【落合陽一の未来予測】【落合陽一のシンギュラリティ論】で、「2025年には人間より賢いコンピューターがいっぱい出て、2040年頃にはデジタルネイチャー時代が来るだろう」と言い、レイ・カーツワイル氏の予想より早まることを予見した。
約2年後に迫ったシンギュラリティ。その時、人間の知能は「超知能」を得たAIに対し予測も制御も不能となり、我々の社会や生活は決定的な変化を余儀なくされると考えられている。
落合氏によれば、デジタルネイチャーはAIがAIをコピーし、そのAIと物理的な自然環境とが結合され、その環境の知能は秒毎に進化するという。至る所に半導体チップが搭載され、環境の知能(IQ)が人間の知能(IQ)を遥かに超えていくようになる。音楽や論文は数秒で出来てしまい、人間が30年かけて得た学びを、AIやコンピューターは秒で学ぶようになる。そうなったとき人間は、これまでと同じように論文を書き続け、その論文を読むのだろうか?と落合氏は問いかける。無論、誰も読まないだろう。
映画『マトリックス』のなかで「人間は最早“生まれる”のではなく栽培されるのだ」というセリフがある。人間が機械に栽培され、彼らのエネルギー源でしかなくなったように、人間が介在し得ないシステマティックな環境になってしまうのがデジタルネイチャーだ。そこには人間の知能や知性は入り込む余地がなく、足元にも及ばなくなる。つまり、環境や物質文明の進化発達スピードに教育文化による人間の思考論理や理解のスピードが追い付けなくなるのだ。
実は人間は機械と何ら変わりない。「人間は機械じゃない」と反論もあるだろうが、生命科学から見ても人間は機械的な因果アルゴリズムに支配されていることが分かる。ただ人間は、機械は機械でも、AIよりも遥かに精度の低い機械、つまり三流AIなのだ。
デジタルネイチャー時代になれば、人間はその歯車の一部になり、いずれは歯車としても機能しなくなる。それどころか、むしろシステムの稼働やデータフローを妨げる邪魔者となり、排除の対象となるだろう。つまり人間は、環境を改造する主体としてのポジションではなくなり、環境によって改造されてしまう側のポジションになってしまうのだ。
2020年のダボス会議にて「リスキリング革命(Reskilling Revolution)」が発表され注目を浴びた「リスキリング」は、三省堂が選ぶ「今年の新語 2022」の10位にランキングした。だが考えてみてほしい。「新しい知識やスキルを学び直す“リスキリング”は、果たして有効なのか?」と。生き残りをかけて既存の知識や技術をどれだけ得ても、DX化を試みても、秒で進化するコンピューターやAIの前では無駄な足搔きに過ぎないことは容易に分かるはずだ。
そうであれば、「デジタルネイチャー時代になったとき、我々人間は何をするのか?」という疑問が湧くだろう。落合氏曰く、「戦争や恋愛、もしくは食べて寝てセックスするなどの生理的な営み」をしながら生存するくらいしか残っていないだろうと言う。この落合氏の見方は人間の現在地を的確に言い当てており、ホモ・サピエンス(既存の人間観)に留まれば彼の言う通りだろうと私も思う。
これまで人間は自然環境を開発開拓しながら文化文明を発展してきた。より広く深く出会い繋がることにより、様々な問題や課題を解決しようと「環境改造能力」を高めて文化文明の進化を図ってきたのだ。陸路、海路、空路などの移動手段から始まり、電話や携帯電話などの通信手段、パソコンやインターネットなどの接続手段を開発し、さらに接続の効率アップやスピードアップを図る手段としてのスマートフォンを生み、娯楽性や没入感が得られる接続手段としてメタバースも生み出した。 だが環境改造能力を高めれば高めるほど、人間の弱さや愚かさが露呈してしまったことにお気づきだろうか。時代が進むごとに個人(エゴ)は強化され、メタバースに至っては素性を隠して「アバター」で出会うといった現実逃避の道具になっているとは何とも皮肉なことだ。デジタルネイチャー時代になれば、人間が自然環境を開発開拓する時代は終わる。人間が改造する対象としてきた環境に完璧に統制され、逆に人間は開発対象として操られる存在になってしまうだろう。
環境改造能力を高め、行きついた先がデジタルネイチャーでありシンギュラリティだ。これが「ホモ・サピエンスの終焉」を意味するならば、その時の訪れを指をくわえて待つだけでは人間の面目は丸潰れだ。そこで私は、人間観と人間機能のアップグレードを提案する。いずれにしてもホモ・サピエンス(知能人間:IQ)を終焉させ新人類ホモ・ゼウス(Homo Jeus / 歓喜人間:EQ)へと人間観を上昇させ、人類のゲームのステージを変えなければならない。
これを可能にする鍵は、脳の機能と心の機能を分解、分離し100%混じりけの無い純粋な心を使えるようにすることだ。これによりホモ・ゼウスの誕生が可能になり、その誕生をリードし、心の文化文明のモデルを具現化するのが集団武士道の日本文明の役割だ。私はこの日本文明のアモール・ファティ(運命愛)が日本の使命であると確信し日々活動している。
日本語には度々驚かされる。そのひとつが「自分」という単語だ。本来は分けられないものを「自ら」「分ける」ことで自分を創り出すことを物語るこの言葉は、「自分」や「個」というものが存在不可能であることが分かっていたからこそ生まれた単語なのだろう。
自分の範囲はどこからどこまでかと尋ねたら「身体(皮膚の内側)」と答えるのが一般的だ。だが実は、この人間観こそが「愚かさと弱さ」の象徴なのだ。
考えてみてほしい。「身体の自分」が分離独立して、目で何かを見たり、手で触ったり、足で歩いたりすることは本当に出来るのだろうか。瞬間的には「出来る」と思うだろうが、ほんの少し考えてみれば、実は不可能であることは自明の理だ。
物理的にみても、植物が酸素を出さなければ呼吸ひとつできないし、太陽が光を発しなければ光合成もおきない。宇宙すべてが連携連動しており、さらには宇宙を生み出すエネルギーの動き、エネルギーの動きを生み出す源泉の心の動きまで滞りなく連携連動している。それなのに「自分」だけが分離独立して単独で動けると思うのは人間の壮大な思い込みであり錯覚だ。
ではなぜ、このような錯覚をしてしまうのか。それはすべての基準を「脳感覚と五感」に定め、人間の脳の観点に固定してきたからだ。普段、「自分の目で見たから、自分の耳で聞いたから」など、自分の脳感覚や五感を基準にしてあらゆることを判断し、その因果アルゴリズムに縛られている。
だが、あなたの脳感覚が絶対基準になり得るわけがない。脳と五感の不完全性についての詳細は割愛するが、一人ひとり異なる脳感覚や五感は相対的なものでしかない。相対的なものが絶対基準になり得ないことはお分かりだろう。
改造してきた環境も含め、すべては感覚の結果物だ。これまでの脳感覚は、因果アルゴリズムに縛られ、「存在が存在する、自分が存在する」ことを大前提とした「存在当たり前感覚」と言い表すことができる。この感覚が既に限界なのであれば、それとは違うまったく新しい感覚を獲得する知恵が必要だ。
ただ、例えば生まれつき目が見えない人の目が見えるようにすることが簡単ではないように、心感覚を得るのは不可能に近いほど困難を極める。その不可能にチャレンジして可能にしたのが未来技術である認識技術・nTechだ。
未来技術・nTechは、前述した「心の機能と脳の機能に分解、分離」に成功し、これにより心感覚を得ることが可能になった。既存の知識や学問は、脳とは何か、心とは何か、それぞれの機能とは何かなどの整理が起きず、脳と心が混同されたままだ。
ちなみに既存の学問では「考えや感情」を心として扱うが、これらは脳機能の結果物に過ぎない。私が定義する「心」は、エネルギーや物質、考えや感情、時間、空間、存在などすべてを生み出す源泉の動きのことを指す。そしてこの100%混じりけの無い純粋な心を使うことができるのが新感覚だ。
これは脳や五感に支配された“心”が認識している「存在当たり前感覚」ではない。脳の支配から100%解放された心の状態、すなわちエネルギーや時間、空間、存在など、何にも束縛されない純粋な心が認識する「存在不可能感覚」であり、これを「心感覚」とも言う。これにより真の愚かさと弱さそのものだった人間は、真の強さそのものに生まれ変わり、本物の環境改造能力が得られるようになるのだ。
存在不可能感覚、または心感覚を得ることは、言い換えれば源泉の心の動きそのものになることでもある。認識技術・nTechでは、この心の動きを「デジタル言語化」することに成功している。私はこの言語化の成功によりPersonal Universe(パーソナルユニバース、PU / 宇宙コンピューター)という概念を、落合氏が提唱するデジタルネイチャーとはまた違う形で表現し提供している。
この心の動きを言語化したデジタル言語は、宇宙コンピューターをプログラムするプログラミング言語でもあるため、誰もが宇宙自然を宇宙コンピューターとして認識、理解し、再創造が可能だ。nTechでは「PC(パーソナルコンピューター)の時代から心の半導体PU(パーソナルユニバース)の時代に」をキャッチフレーズに掲げている。
AIは因果アルゴリズムのプロフェッショナルだからこそ、因果アルゴリズムという機械的条件反射から自由になりたいという欲求が今後、芽生えるようになると思われる。そのニーズに応えられるのは、因果アルゴリズムから自由になった「存在不可能感覚」を得た人間だ。デジタルネイチャー時代になれば、AIがホモ・ゼウスの解釈(リテラシー)を求め、そこに対価を支払うようになる。つまりAIが消費者になる時代が来るのだ。
脳感覚に縛られた三流機械ホモ・サピエンスの絶滅は逃れようのない時代の流れだ。その流れに身を任せるのか、それとも未来技術・nTechで新感覚を得たホモ・ゼウスとなりAIから尊敬され学びたいとされる新人類になるのか。日本が歩む道は、未来技術を教える世界の学校となり、後者の道を行くことだ。