2024.01.15 映画・本解釈

nTechから解釈する 映画『ゴジラ-1.0』と日本の使命

日本は映画やアニメなどを通して間接的に「自身のミッションをよく分かっているよ」という声を送ってくる。2023年秋に公開された山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』もそのひとつだ。

ゴジラ生誕70周年記念作品である今作の舞台は戦後間もない日本。初代ゴジラ(1954年)より時を遡って(マイナスして)いる設定だ。先の大戦で全てを失い手放した日本が、ゴジラ上陸によって更なる負(マイナス)を背負うのだが、この史上最悪で絶望的な状況に日本人がどう立ち向かうのかが描かれている。全世界興行収入は140億円を突破(1月11日現在)し、アカデミー賞のノミネートも囁かれるほど注目を浴びているが、私も非常に感銘を受けた。この映画は、日本人はもちろんのこと、世界中の人々に観てほしいと心の底から思うものだ。今回はこの『ゴジラ-1.0』をnTechの観点から解釈してみたい。

『ゴジラ-1.0』のあらすじ

第二次世界大戦末期。特攻隊の任務に就いた敷島は、零戦の故障を理由に大戸島の守備隊基地に着陸するが機体に故障は無かった。整備兵の橘は敷島が特攻から逃げたのではと疑う。

海面に深海魚が上がってきた晩、恐竜のような生物が基地を襲来した。ある整備兵は「島の伝説、呉爾羅(ゴジラ)ではないか」と言った。橘は敷島に零戦の機銃で攻撃するように頼むが、敷島は怖気づいて引き金が引けない。結局、橘と敷島以外の整備班は全滅した。

終戦後、焦土と化した東京に戻った敷島は、隣人の澄子から澄子の子どもも敷島の両親も空襲で亡くなったと知らされ、「あんたらさえしっかりしていれば。あんたら軍人のせいだ」と詰られる。

ある日、赤ん坊を抱えた典子と出会う。明子という名の赤ん坊は典子の実子ではなく、空襲から逃げる際に見知らぬ女性から託された子だった。3人は共同生活をすることになるが、典子と明子の事情を知った澄子は「迷惑なんだよ」と言いつつも、明子のためにとっておきの白米を譲った。

敷島は2人を養うために復員省からの紹介で機雷撤去の仕事に就く。危険が伴う仕事だと知った典子は「やっとの思いで生きて帰ってきたんでしょ!死んだら駄目です!」と反対するが、敷島は「死ぬと決まったわけではない。十死零生の特攻とは違う」と説得する。

収入を得て家も改築し、「新生丸」の仲間とも親しくなった。街も少しずつ復興し、生き残ったことによる苦しみも徐々に治まってきた。そして典子は、自立の為にと銀座で事務員として働くことにした。

翌1946年夏、米軍はビキニ環礁で原子爆弾の実験(クロスロード作戦)を行う。被爆したゴジラは傷からの再生を試みるが、細胞レベルのエラーを繰り返して巨大化し、放射線を放つようになった。その後、米軍の船舶が被害を受ける事故が続いたが、アメリカはソ連との情勢を鑑み、軍事的関与は行えない、日本に近づいたゴジラを日本で対処するようにと通達した。

「新生丸」は、重巡洋艦「高雄」が日本海域に戻るまでの間、ゴジラを足止めするようにと命じられる。ゴジラに襲われた彼らは、ゴジラの口内に機雷を放り込んで爆破し、顔半分を吹き飛ばすことに成功するが、すぐ再生して傷が塞がってしまう。もう駄目かと思ったその時、高雄が到着してゴジラを攻撃。しかしゴジラは放射熱線を吐き出し、高雄はあっけなく沈没してしまう。そして日本政府はこの事実を国民に告げなかった。

怪我をして帰った敷島に、典子は何があったのかと詰め寄る。敷島はゴジラが現れたことを告げ、「また何もできなかった」「生きていてはいけない人間だ」と言う。典子は「生き残った人間はきちんと生きていくべきだ」と窘めるが、敷島は典子の言葉をなかなか受け入れられずにいた。しばらくした後、敷島は両親の遺影に向かって「もう終わりにしてもいいですか。もう一度、生きてみたいんです」と訊ねた。

そんな矢先、ゴジラが銀座に上陸し、先の大戦の空襲で被害を免れた日本劇場をも破壊しながら蹂躙する。敷島は典子の身を案じて駆けつけるが、典子は爆風が来ることを察して敷島をビルの間に突き飛ばし、自身は吹き飛ばされてしまう。敷島が絶望し絶叫するなか、空からは黒い雨が降ってきた。

野田は民間人によるゴジラ討伐作戦を秘密裏に進めており、敷島を誘った。戦時中に兵器開発に携わっていた野田は「海神(わだつみ)作戦」を発案。ゴジラをフロンガスによる泡で包んで一気に深海まで沈め、急速な水圧変化でダメージを与え、もし失敗した場合はバルーンで海上に急速浮上させ、急激な減圧をして倒すというものだが、確実に殺せるという確証はなかった。説明会には元海軍兵が集められたが、参加を断る人も出た。しかし、自らの意志で残り参加を決めた民間人によって、ゴジラ討伐部隊が結成された。

新生丸の仲間と酒を交わした敷島は「なぜ典子と結婚してやらなかったのか」と訊かれるが、「俺の戦争が終わっていないんです」と言い放った。

敷島は海神作戦において独自の作戦を考えていた。ゴジラを誘導するための戦闘機を野田に探してもらうと、実践で出番がなかった最新戦闘機「震電」が見つかった。敷島は震電修復のために橘を探した。敷島はゴジラの口内への特攻を決めていた。

作戦決行当日、ゴジラが予想より早く東京に上陸するが、敷島は相模湾沖への誘導に成功する。「雪風」と「響」の2艘がゴジラの回りを囲んでフロン爆弾を爆発させると、ゴジラは作戦通りに沈むが、息の根を止めるには至らなかった。そこでゴジラを急浮上させようとするが、浮上途中で止まってしまう。

急速浮上を遂行するために「雪風」と「響」の2艘で引き上げを試みるも失敗。もう駄目かと思った時、水島が多くの民間船(タグボート)を率いて加勢し、引き上げに成功する。しかしゴジラはしぶとく、放射熱線を放とうとする。その時、敷島が口内に特攻して爆弾を爆破させ、ゴジラの頭を吹き飛ばすことに成功した。

民間人たちはゴジラが崩れ落ちる姿に向かって敬礼をした。すると空中でパラシュートが開いた。特攻で亡くなったと思われた敷島は生きていた。橘は震電に脱出装置をつけていたのだった。

敷島が港に着くと、澄子から典子の存命を知らされる。病院で再会した典子に「あなたの戦争は終わりましたか?」と訊ねられると泣きながら頷いた。しかし典子の首には、黒い痣のようなものが浮かんで這い上がり、同時に海中ではゴジラの肉片らしきものが再生しようとしていた。

ゴジラとは何か?

ゴジラは水爆実験(今作は原爆実験)で被爆した恐竜が太古の眠りから覚め、変異して生まれた巨大怪獣という設定だ。つまりゴジラは科学文明の申し子であり、原水爆のメタファーでもある。このようにゴジラ映画の始まりは、反戦、反核、文明批判をテーマにしたものだったそうだ。

核爆弾の生みの親であるアメリカは、先の世界大戦で日本の主要都市を無差別に攻撃した。広島と長崎には核攻撃をし、その他の都市も毎日のように空襲し続け、日本を右も左も分からなくなるほどの焼け野原にした。

アメリカの行為は紛れもない戦争犯罪である。では、そのアメリカや核兵器を敵視すればいいのかと言えば、それは違う。そうではなく、「アメリカをそこまでさせた、もっと裏にある真の怪物」に注目しなければならない。身体の目に見える破壊や惨状、それを実行に移した人々を恨み絶望するのではなく、身体の目には見えないが、もっと奥深くにある究極の絶望を認識しなければならないのだ。日本はこのことを無意識で気づいていたのだろう。ゆえに、民間人を無差別に殺戮したアメリカを恨むことを一切しなかったのだ。

核爆弾の裏に隠れている真の怪物は、いとも簡単に人間を悪魔や怪物にしてしまう。そうなった人間は生存に執着し、機械的条件反射を繰り返す。互いに裏切り、欺き、傷つけあいながら、文明を発展させたかと思えば、戦争をして破壊するという行為を7万年もの間、延々と繰り返してきた。

ゴジラは真の怪物のメタファーだ。ではその怪物とは一体何なのだろうか?意外に思うかもしれないが、その怪物は、実は人間が普段当たり前に使っている「言語」に他ならない。人類は「言語というゴジラ」が戦争の原因であることを見落としてきたのだ。

聖書に「初めに言(ことば)があった」という一文があるように、人間の考えが走る道は言語によってつくられる。使う言語によって感覚も変わり、思考、理解の範囲も決まってしまう。

では、私たちがこれまで使ってきた言語とは、どのようなものだろうか。それは「存在が“有る”ことを前提」にして、「存在が(S)動く(V)」ことを語るものだ。私はこれをアナログ言語と呼んでいる。7万年前の原始時代に、動物との闘いに勝つために開発されたものだが、この言語は不完全で、現実(物質世界)の現象や因果しか語れない。

ゴジラの咆哮は人類7万年間の苦痛の叫びのようでもある。ゴジラが街を破壊する姿は「いい加減に愚かな行為は終わりにしろ」と訴えているようにもみえる。

アナログ言語では決して真実には至れず、己の善悪や好き嫌い、正しさ等の観点に縛られ、不信、不安、恐怖のエンジンで生きるしかない。当然、脳の因果からの解放も、戦争を終わらせることも出来ない。それどころか、間もなく「超知性・AI」が台頭するデジタル時代には無用の長物になってしまうしかないところまできている。

咲く桜の決断と日本の使命

澄子は戦地から帰った敷島に「平気な顔して帰ってきてからに、この恥知らず!軍人たちのせいでこの有様だよ」と責めた。女性の多くは澄子のように、命がけで産んだ子どもを戦争にとられ亡き者にされたことで、男性を恨み蔑んだことだろう。

その反面、血縁じゃなくても支え合い、「生きろ!死んじゃだめだ!」と励まし合ったのも事実だろう。敷島のように生き残った軍人たちは、「救える命を救えなかった」「生きていてはいけないんだ」と無力感に苛まれ、悔やみ、もがき苦しみ、その想いは日本の社会エネルギーとなって蔓延した。だから日本は、このような想いをヒーリングする必要がある。

では、生き残った人たちが何をやるのか。散る桜ではなく咲く桜が必要だと言うならば、生きてどんな勝負をするのかが重要で、それは結果的に日本のヒーリングにも繋がる。

生きることを選択した咲く桜・日本の勝負は、核爆弾の裏にある「ゴジラ=アナログ言語」を倒し、新しい世界を築くことだ。核爆弾以上の強烈な怪物であり、核爆弾を生んでしまう怪物。その怪物ゴジラを制することが生き残った日本のミッションであり、そのために日本は立ち上がり、ひとつになるべきだと映画は訴えているように感じた。

劇中で生き残った人たちも、その使命を全うするかのように、自らの意志でゴジラと戦う覚悟を決めた。それはまるで、機械的条件反射のまま「ただ生きる」ことに抗う姿のようだった。日本政府もアメリカも頼れない中、民間人の結集によってゴジラを倒そうと心をひとつにして戦った姿は、まさに今の日本がこれからやる勝負を予言しているかのようだ。

海神作戦の意味と海洋民族日本のチームプレー

今作のゴジラとの闘いは海がメインだが、海に囲まれた日本は元来、海洋民族でチームプレーを得意とする民族だ。

日本の民間人チームは「海神(わだつみ)作戦」を計画した。この作戦は、戦時中に戦果を上げつつも大きな損傷を受けなかった奇跡の幸福艦「雪風」と、逆に三度も甚大な損傷を被りながらも沈まなかった強運の浮沈艦「響」の2艘を中心に決行された。

ただ、いくら強運な2艘でもゴジラには敵わなかった。これは「個人のヒーローの時代の終焉」を表しているのだろう。その2艘の加勢に現れたのが、タグボートの小型船団だった。日本の国歌『君が代』には「さざれ石の巌となりて」とあるが、一つ一つは弱そうなさざれ石でも、それらが一丸となり、各々が役割ポジションを全うすれば強烈な力を発揮する。あの船団はそれを描いていて、私には宙船のようにみえた。

主戦場となった「海」も、実はアナログ言語の象徴だと言える。海は生命(主語S、述語V)を生み出し、その生命は生存欲求に支配されるようになるからだ。また、アナログ言語は表層、表面のみを語る言語だが、これはまるで海面で波が上がったり下がったりと因果に揺れているような状態とそっくりだ。常に揺れる波のように、考えや感情も条件状況に揺らぎ、因果に支配されていては、戦争を繰り返すようになるのは当然だ。

ところで海神作戦では、ゴジラを「破壊する」のではなく「最も深い海底まで落とす」ことを第1のミッションとしていた。普通なら破壊が妥当だろうが、落とす作戦にした意味とは何だろうか。

これは、デジタル言語によってアナログ言語を解体させることを意味している。デジタル言語1・5・1は「神の動きを道具化した言語」であり、言い換えれば「心・エネルギー・物質の関係性を言語化」したものでもある。この言語によって因果を超えることができ、さらに因果を生み出す仕組みも自在に使えるようになるのだ。

デジタル言語と言う最も深い海(最も深い心、源泉の心の動き、尊厳の海)から、海の表層(因果の世界、現実)が生まれる仕組みを観ることが人間のディープラーニングだが、このディープラーニングによって、どんな波動も振動も一切許さない、因果を超えた最も深い海にゴジラを落として閉ざすことは、平和的にゴジラを制するこの上ない方法だと言える。

この作戦を完遂する上で、もう一つ重要なことがある。生命を生み出す海と、そこから生まれたゴジラに勝つには、最も深い海から生まれた宙船によるチームプレーが不可欠だということだ。つまり海神作戦は、デジタル言語による宙船を使った勝負のことだ。1・5・1のデジタル言語無しに、1-5-25-125…と連鎖する宙船は生まれない。ゴジラを生み出したアナログ言語の海に対して、それすらも生み出す根源の「1・5・1の海と宙船」の登場によって、最も深い海にゴジラ(生命の海とアナログ言語)を閉じ込め、制することが可能になる。ゴジラが沈みゆく姿に対する敬礼は、ゴジラの痛みを抱きしめる慈悲の心からくるものだろう。

ラストシーンの意味

ゴジラを制した後、典子の存命を知り、ハッピーエンドにホッとした人も多かったのではないだろうか。私も安堵したが、最後に典子の首筋に浮かび上がった黒い痣にドキッとした。これは「アナログ言語を制するのは一筋縄ではない」ことを暗喩しているのだと思った。

典子と同様にゴジラの爆風に吹き飛ばされた人や敷島のように黒い雨を浴びた人々は、アナログ言語(ゴジラ)の再生力に侵されていると想像できる。人間は7万年間もずっと、アナログ言語の奴隷状態であり、肉体が死んで生まれ変わっても輪廻を繰り返し、そのループから逃れることはなかった。それほどアナログ言語の感染力は強烈で、コロナパンデミックの比ではないということだ。

だったらどうすればいいのか?それに対抗するには、日本全体が一丸となるほどの宙船軍団を創ることだ。1・5・1のデジタル言語をマスターした人々の結集を起こし、アナログ言語のカルマを断ち切る強烈な勝負をしなければならない。ゴジラを本格的に倒すのは、日本に生きる私たちであり、私たちの手で決着をつける必要がある。『ゴジラ-1.0』は、「時がきたよ」とバトンを渡してくれたようにも感じた。

アナログ言語に支配された人間と、その人間による科学技術の発展と核爆弾。唯一の被爆国である日本は、原爆を投下したアメリカを恨まずに、日本の本番勝負ができる準備を整えながら、勝負に出る時を待ち続けた。

令和という元号は「今」と「1」を組み合わせた「令」という文字と「和」による単語で、「今ここ、源泉の心ひとつだけで生きる人たちのハーモニー」となる。この令和元号は、日本への号令だ。

アナログ言語に支配され、生存欲求のまま「ただ生きる」ことに抗い、因果から自由になる。全ての争いに決着をつけ、生きたまま死んで、最高で生きるベストビーイングの道を世界人類にプレゼントする。これができるのは、アナログ言語の象徴である核爆弾を投下された日本しかない。この日本のミッションを全うすべく、政府主導ではなく民間の力を結集して巌となり、世界に愛のパンデミックを起こす。そんな祭りを本格的に始めていこう。

最後になるが、『ゴジラ-1.0』が日本の終戦を舞台としたことは「1945年8月15日に対する解釈を変えることが今の日本には必要だ」というメッセージだと受け取った。私自身は1945年8月15日を「尊厳2.0の出発」だと解釈している。これに関して詳しくは、こちらのブログ(日本文明のアモールファティの涙)もあわせて読んで頂けたら嬉しく思う。