少し前に映画『君たちはどう生きるか』のリテラシーコラム(【ネタバレあり】nTechからみた映画『君たちはどう生きるか』の解釈 )を書いたが、今回はまた別の角度から解釈してみよう。
世界的な知名度を誇る宮﨑駿監督の10年ぶりの長編アニメで、製作費は100億円を越えるとも言われ、完成までに7年の歳月を費やしている。プロデューサーの鈴木敏夫氏は「今までのどの日本映画より製作費がかかっているのでは」と発言するほどの大作だ。
前回は主人公・眞人の問題意識にフォーカスして、終わりなく繰り返す観点やカルマのパターンを六道輪廻で整理し、そこから自由になる眞人の成長を中心に解釈した。今回は個人の観点からスケールを広げ、「日本」と繋がった解釈をしてみたい。
というのも、あれほど膨大な製作費と年月を投じて世に送り出した作品に「日本へのメッセージ」を込めないはずがないからだ。しかも公開時期は人類史に類をみない大転換期である2023年の夏だ。
もし日本へのメッセージが込められているならば、それはどのようなものだろうか。
私は「日本という共同体へのコンサルティング」ではないかとみている。日本はいったい何処に向かって舵を切り、どう生きるべきなのか?その問題提起と方向性の提示をしているように思う。
では日本は今、どのような現在地だろうか。観点は無限にあるので当然、いろんな見方ができるが、私は、第二次世界大戦に敗戦して家族の絆が崩壊している上に、すべての問題の根本である「観点の問題」の解決ができていないのが今の日本の現在地だと診断する。
この現在地に加え人類は、AGI(Artificial General Intelligence:人工汎用知能)やASI(Artificial Superintelligence:人工超知能)が10~20年先に登場するとされる時代を迎えた。つまり近い未来、人間の脳機能より1兆倍優れたASIが人類の総人口を超える個体数になり、彼らに囲まれた世界が日常になるのだ。現時点のAIですら並の人間を超え始めているのに、人間の脳機能の1兆倍になれば「人間がアリをみるように、AIが人間をみる」ようになってしまうだろう。ソフトバンクの孫正義氏も先日、「このままだと金魚になる。日本よ、目覚めよ」と講演したそうだ。
この事態は日本にとっても世界にとっても「面白きこともなき世」という言葉がぴったりだろう。そうならば、この世界をどのように整理整頓し、先の未来をどう生きればいいのかを考える必要がある。宮﨑駿監督はこのメッセージを映画に込めたのではないか。
映画のあらすじは前回の記事(【ネタバレあり】nTechからみた映画『君たちはどう生きるか』の解釈)を参照して頂くとして、早速、日本コンサルティングの観点から解釈をしていこう。
映画では、眞人は火事で母(久子)を失い、父に対して「母を助けられなかった人=母を殺した人」というふうに見るようになる。その上、父は母の死後すぐに母の妹の夏子と結婚し、夏子のお腹には赤ちゃんまでいるという事実が許せないでいる。
現実は「人間関係に依存して生まれた結果物」と言える。人間関係力をより詳細に整理すると、その人が持つ疎通交流能力や信頼関係構築能力、表情、目線、仕草、実践行動、関係構築、組織力、勢力になる。では人間関係力は何に依存しているかと言えば「人間力」だ。人間力は、心の平和能力や情報知識の整理整頓能力、意思決定能力、精神、意識、意図、思考、感情、言葉などと整理できる。
「現実=人間関係の結果物」ならば、家族の絆(関係性)が壊れた眞人にとっての現実は、まさに「面白きこともなき世」だ。眞人は亡き母に執着し、その観点にずっと縛られていた。だがそのレベルの人間力では、不信、不安、緊張、孤独、恐怖のエンジンで、絶望の環境に溺れた人生を送るしかない。その状態から、どのように限界突破をして希望を見出せるのか。そして、「あなた自身はどう生きるのか?」と問いかけているのだ。これまでと変わらず同じ観点を輪廻して因果に掴まれて生きるのか、それとも、その状態から脱して希望を見出すのか。
日本に話を戻すと、日本の方向性も2つに大別できる。ひとつは、これまでと同じ「脳の奴隷」のまま、アメリカの名誉市民として生きる道を進むのか。もうひとつは、その道をストップして、「集団で悟る集団即身成仏」という前人未踏の道を進むのか、だ。
前者であれば、日本どころか人類全体が集団自滅コースを歩むことになるだろう。でも後者であれば、日本は新人類のモデル、英雄集団となり、世界の誰もが本来持つ人間の尊厳を花開かせる道を切り開く主人公になるはずだ。
映画解釈の大前提として今回は、眞人と母・久子は明治維新のシンボル、夏子と弟は令和維新のシンボルと整理してみることにする。明治維新はアナログの旧い日本で、令和維新はデジタル(1・5・1)で希望の日本だ。そうみたとき、明治維新の旧い日本(眞人)は、母への執着を超え、父や夏子、お腹の赤ちゃんをどのように受け入れられたのだろうか。
もし、眞人が自分の判断基準や観点、脳機能に縛られて、亡き母のことばかりを考えていたらどうなるだろうか。つまり、日本がいつまでも過去から自由になれず、明治維新の夢ばかり考えたらどうなるのか、ということだ。
nTech(認識技術)では、現実は五感と脳による結果物で、パソコンやスマートフォンに例えると「出力された画面」だと言っている。これを「映像スクリーン」と呼んでいるが、つまり、出力画面(映像スクリーン)は実在するものではなく、何かの働きに依存した「結果物」でしかないということだ。パソコンで言えば、思い通りの画面を出力するには、半導体チップやプログラミング、アルゴリズムなどの設計が必要で、その仕組みが働くことで音や映像が出力(決定)されるようになる。同様に現実(映像スクリーン)の裏にも、脳や五感ではキャッチできない仕組みがあり、これを「バックスクリーン(エネルギーのアルゴリズム、エネルギーの量子場)」と呼んでいる。またこれは、自分の意志とは関係なく考えや感情、言葉、行動などが機械的な条件反射をするといった「輪廻転生を反復する仕組み」でもある。
この映画の意図は、映像スクリーン(表)に「方(バックスクリーン:裏)」を付けて「片づける」ことのようにみえる。バックスクリーン(エネルギーのアルゴリズム)は日常では認識できないが、この映画が「難しい」「わかりにくい」と言われているのは、そのためでもある。また、明確な悟りがないなかでは裏の世界を描くのは困難であり、それを理解する側も難解だから、映画が「難しい」となるのは当然だと言える。
映画では、現実(映像スクリーン:アナログ)から裏の世界(バックスクリーン:デジタル)に行くツールとして「塔」が登場する。脳基準の人間には理解不能なバックスクリーンだが、これを取り入れることで、エネルギーのアルゴリズムが分かり、輪廻転生の仕組みが整理できるのだ。
塔の中には、神のような存在の大叔父がいた。大叔父は、この世界は13個の積み木でバランスを取っていると言っていたが、これはデジタル言語1・5・1でみると簡単だ。心機能の1・5・1(シミュラークル)によって、脳機能の1・5・1(シミュレーション)が成り立つが、シミュラークルの1・5・1を「1」とし、シミュレーションの1・5・1を合わせると合計で13になる。つまり全ての現実(存在)は13個の1・5・1、1・5・1の積み木の秩序に依存し、その反復で成り立っていることになる。
塔は、日本社会に明治維新が起こった象徴でもある。映画でも「ご維新(明治維新)の時に塔が現れた」とあるが、これは「日本にミッションが入った」ことを物語っている。異質の世界に入る道である「塔」は、明治維新を通してアナログの映像スクリーンからデジタルのバックスクリーン(エネルギーのアルゴリズム)への道が開いたことを意味している。
私自身、明治維新がなければ、JAPAN MISSIONの勝負を始めていなかった。日本の勝負については、こちら(日本文明のアモール・ファティの涙 【ネタバレあり】nTechからみた『すずめの戸締まり』の解釈)を参考にしていただきたいが、私は明治維新の偉大さと1945年8月15日の美しさとの出会いがあったからこそ、JAPAN MISSIONの勝負の決断をし、28年前から全身全霊で走り続けてきたのだ。
塔の下の異世界(バックスクリーン)ではペリカンの大群が出てくるが、このペリカンは「西洋人と化するしかなかった日本」の象徴とみることができる。
ペリカンが連れてこられた場所は、エサになる魚が少なく、飢えてしまう海だった。そこで彼らは翼を広げて空を飛び、エサを探した。だが、再び同じ島へと辿り着いてしまうため、わらわらを食べるしかなかったのだが、そうするとヒミに焼かれてしまう。それを繰り返すうちに、次第に空を飛ぶことも忘れてしまったのだ。
このペリカンを「日本」としてみるとどうなるか。明治の日本は「アジアの近代化はアジアでやりたい」という夢を具現化しようとした。だが他のアジア諸国で近代化を遂げた国は日本以外どこにもなかった。日本と共に歩み、具現化していくアジアの仲間を得られなかった日本は、西洋人のようになる道しかなかったのだ。
また「飛ぶことを忘れたペリカン」が食に執着して火で焼かれたように、明治の日本も「生死を超えた武士道の日本の精神」を次第に失っていった。「武士は食わねど高楊枝」の精神が消えて西洋人になり、生存欲求に掴まれ死を恐れてしまうようになったが、それは「本当の尊厳ある生き方ではない」というメッセージではないだろうか。
続いて、キービジュアルの「アオサギ」はどう整理できるだろうか。彼は眞人を異世界へと案内する役を担い、眞人に「母は生きている」と言って塔へと誘導した。塔の中には死んだはずの母が横たわっており、眞人は思わず手を伸ばす。が、その手が触れた途端、水のようなものに姿を変えてしまった。
このシーンは何を意味するのか。アオサギは「サギ男」と呼ばれていたが、彼は、「現実は虚構、嘘であり“点だらけ”」だと気づかせる役割と見ることができる。五感の目では“母のように”見えたが、実は本物の母ではなかった。溶けていった母が「現実の象徴」だとすれば、現実(映像スクリーン)は点だらけの嘘であり、泡沫であると訴えているのだろう。人間は脳に支配され「現実=真実」だと思い込んできたが、AI時代を迎えた今は、「現実=虚構、泡沫、嘘」であることに、そろそろ気づかねばならない。この大前提が崩れることは、真実へのファーストステップとして絶対に欠かせないものだ。
また、「すべてのアオサギは嘘つきだとアオサギはいった、それは本当か、嘘か」というパラドックスも登場したが、これは「因果論の矛盾」を示している。「自分は生きている」「存在がある」「〇〇とはこういうものだ」など、人間は決定論に支配され、大半はこの決定論を疑いもしない。だが「決定論」は脳による因果の奴隷で限界だらけだ。このことに気付かず「一度、知ってしまった世界」から自由になれない上に、「自分が知った世界」を基準に善悪、好き嫌い、正誤、美醜などを判断して人生を送っていることは大問題だ。
因果を超えたエネルギーの世界では、決定論は全く通用しない。エネルギーは、始まりも終わりもなく、決定しているものも、決定させる要素もない。常に粒子と波動が重畳し、さらに言えば粒子も波動もない。つまり「決定した善悪」というものは存在せず、人間が「善だ、悪だ」と決めつけてきたものは脳による観念に過ぎないのだ。アオサギはこのことを訴え、またペリカンからもこのメッセージを読み取ることができる。
ペリカンに立場を変え、観点を移動してみれば、絶対的悪や絶対的善はないことがわかるだろう。わらわらを食べるペリカンを目にした眞人は初め、ペリカンに対して怒りの感情が湧いていた。だが、老ペリカンの話を聞き、ペリカンの立場に観点を移動してみたら、ペリカンがわらわらを食べるしかなかったことが理解できた。同様に、日本が西洋人になるしかなかったことも、日本の立場に観点を移動したら簡単に分かる。
全ての現実の存在は、13個の積み木の秩序(シミュラークルとシミュレーション)の反復によって成り立っていると言った。このことは脳や五感では認識も記憶もしていないが、実は誰もが常に経験している。
時速300キロで走る新幹線に乗っても、そのスピードを感じないのは、新幹線とひとつになっているからだ。地球も強烈な速さで自転公転しているが、その動きを感じないのも地球とひとつになっているからだ。また、光やエネルギーともひとつになって動いているが、その動きを認識経験できていない。でも認識できていないだけで、実際に経験しているのだ。
このことは何を意味するのか。私たちは普段、皮膚で覆われた身体の自分が、空間や他の存在と独立、分離、断絶、固定していると疑わない。でも「認識経験ができないだけで、全ての動きを今ここ経験している」のならば、固定した存在は実在できず、決定固定した善も悪も存在できない。つまり全てが「ポジション、役割」を演じているだけに過ぎないということだ。
これは、小説や映画に多種多様な配役があるのと同じだ。だとしたら「許せない、許さない」と執着する必要は何もないことが分かるだろう。これに気づいた眞人は、父や夏子、お腹の赤ちゃんへの葛藤を超えて全てを受け入れ、オールイエスで希望の未来を創ろうと決断した。
日本はアジアの夢を掲げて明治維新を起こしたが、結果的に多くの命を犠牲にしてしまった。ペリカンは空を飛ぶことを忘れて地上でわらわらを食べ、未来の人間になるはずの大勢の命を奪った。食べ物につかまれ機械的条件反射をしながら、ただ生きているペリカンのようになってしまった日本。でもペリカンや日本の観点に移動すれば、ペリカンの行動も今の日本についても理解可能だ。
次にインコをみてみよう。領土を拡張しようとするインコは帝国主義・日本の象徴だ。インコは眞人を食べようとするが「夏子は赤ちゃんがいるから食べない」といった。これは、「夏子と赤ちゃんは令和維新の象徴で未来の希望」だから食べられないということだろう。
眞人はヒミ(母の子ども時代)と共に夏子がいる産屋へ行くが、そこに入ることは禁忌とされていた。夏子は産屋にきた眞人を「あなたなんか大嫌い!」と拒絶するが、このシーンは、令和維新を起こしたい夏子が、明治維新の考え方を持つ眞人を受け入れられないことを表現している。
その後、眞人は大叔父と対話する。大叔父は、積み木で世界のバランスを取り、眞人にその仕事を継ぐように頼む。だが眞人は「私には悪意があるから、私では駄目だ」と断った。
眞人を明治維新の象徴としてみると、眞人のこのセリフは、明治維新も全く悪意がないわけではなかったこと、また明治維新のレベルでは役不足だということを言いたいのだろう。
インコ大王は、大叔父と眞人のやり取りに対して、「こんな石ころ(積み木)に帝国の運命を預けるつもりか!」と怒り、積み木を触って秩序を滅茶苦茶にしてしまった。このインコの行為は、帝国主義の日本が世界大戦の引き金を引いたことと繋がる。
インコが積み木を崩して秩序を崩壊させたように、日本が世界大戦の口火を切ったことで、世界秩序はこれまでと変わったようにみえる。でも、裏に働くバックスクリーンの秩序は、常に変わらずにやり続けているから、今も世界は崩壊していない。
インコが積み木を崩した後、眞人、アオサギ、ヒミ、夏子、キリコは時の回廊に辿り着いた。時の回廊のドアは、バックスクリーンから映像スクリーンを行き来する「間」だ。ドアがたくさんあるのは、バックスクリーンはどの時空間にも通じるからだ。脳に支配された人間は、固定された時空間のイメージしかないが、脳を超えてみれば「今ここ」に全てがあることが分かる。
ドアを通して現実(映像スクリーン)に戻ると、通常は下の世界(バックスクリーン)のことを忘れるはずだが、眞人は覚えていた。バックスクリーンの世界が意識化されたからこそ眞人は忘れることがなかったのだ。そして現実世界でも父、夏子、お腹の赤ちゃんを受け入れ、希望の未来にいく決断ができた。日本も明治維新の夢に執着せず、今の日本を受け入れて、未来の希望・令和維新(父、夏子、お腹の赤ちゃん)を受け入れ、希望の未来に向かう決断するときだ。
起きたことは真理しかない。なぜなら実在するものは何にも依存しない真理ひとつだけで、不二だからだ。これまでの全てをオールイエスで受け入れれば、希望の未来へと歩みを進めることができる。この映画のメッセージを受け取り、オールイエス、アモール・ファティで令和維新を日本から起こしていこう。
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