「大きさがない世界」をみなさんはイメージすることができますか?
今までの人類が構築した知識体系は、大きさがあることが大前提で成り立っています。「時間」にも大きさがあり、同様に「空間」「存在」「エネルギー」にも大きさがあります。人間が持っているすべての暗記言語(※注1)は、大きさや境界線がある固有名詞の変化・運動・移動を語っており、人類はこの暗記言語を使って今までのすべての知識体系を整理整頓してきました。
令和元年を迎えた令和時代は、これまでの「大きさがある世界」という大前提が覆されるでしょう。今この瞬間、時間の大きさも、空間の大きさも、存在の大きさもない世界が当たり前になり、これまでとは次元が違う動きである「無境界線の動き」が大前提になるのです。(ちなみに、これまでは模様や形、境界線がある固有名詞が3次元の動き(縦横高さの動き)をし、この多様な現象世界の動きを運動方程式で記述・表現してきました。)
大きさがなく、固有名詞もないイメージ不可能な動きと、そのイメージ不可能な動きの主語(S)と述語(V)を生み出す動き、その次元が違う動きのことを、nTechでは「源泉的な動き、永遠不変の動き、絶対世界、オリジナルマインド」などと表現しています。そしてこれを、令和の“今「1(ひとつ)」”の一番深い心の動きである、と規定しました。この心は、無関係の心、無関心の心でもあり、無所有の心、無所属の心、束縛されない心、機械化されない心、分離断絶が不可能な心、おもてなしの心、などと言い表すこともできます。
令和哲学26では、この「大きさがない心」をテーマに語ってみたいと思います。
大きさがない世界は、数学言語でいう「虚数(複素数)i」と似ているように見えるかもしれません。しかし虚数(複素数)iも、実は大きさが存在します。虚数(複素数)iはとても抽象的な世界ではありますが、数学上で「Imaginary Number」と呼ばれているように、想像上(=イメージ可能)の数字です。ですから虚数(複素数)iは、抽象的な境界線が存在する「大きさがある世界」に含まれます。
大きさがない心(オリジナルマインド)、つまり「イメージ不可能な心」から「イメージ可能な心」が生まれ、「イメージ可能な心」から「エネルギー化された心」が生まれ、「エネルギー化された心」から「力によって物質化されたエネルギー」が生まれ、そして私たちのように身体をもった人間が認識する「物理現象」が生まれています。
すべての大きさを一直線上に並べることができる実数体系(Real Number)と、具体的で固定している大きさではないけれど抽象的なイメージの大きさがある虚数(複素数)i(2乗すればマイナス1、4乗すれば1になる)は、2次元の複素平面上に表せます。この実数R、虚数(複素数)iともに共通していることは、「人間の脳の観点を通過した結果物に留まる世界」だということです。
「機械的な反復をしない心、大きさがない心」の世界は、数学のガウス平面や、複素平面の2次元数体系では、表すことができません。そのため、今までの数体系を2次元から3次元に拡張する必要があります。既存の数学の概念では、大きさがない世界に対する表現が存在しないため、nTechでは「J」と名付けました。アルファベットの並びは、a,b,c,d,…h,i,j…と続きますが、こうみたとき虚数(複素数)iをバックアップする「J」とも言えますし、また虚数(複素数)iは、機械的な反復をする心と観ることができるので、虚数(複素数)iを機械的な反復をしない心に復元させる新概念として「復元数J」と名付けました。また、観点が1であり0であり∞であるという意味を含めて「0=∞=1」とも表現できます。
大きさがない世界、復元数Jの機能は、「大きさが生まれたり消えたりすることを統制できること」です。大きさがある世界でもなく、大きさがない世界でもないのがJなのです。これをイメージするために、まず棒磁石を例えにイメージしてみましょう。棒磁石は一見、NとSが別々に存在しているように見えますが、「NとSに分離しよう」と思って分けたときにはどうなるでしょうか?結果は、Nだけだと思っていた部分にSが生じ、Sだけだと思っていた部分にはNが生じます。このことから、磁石は「NでもないしSでもない」と言えます。NにもなれるしSにもなれる、NでもSでもない「何か」が実在するだけなのです。
Jも同様に、大きさがある実数Rもできたり、具体的な大きさがない虚数(複素数)iもできますが、実数Rでもありませんし、虚数(複素数)iでもありません。実数Rも虚数(複素数)iも、本物に戻る復元数Jによって成り立っているのです。ですから、その源泉的なひとつの動き「復元数J」によって、すべての大きさの生滅現象を語ることができるのです。
参照:令和チャンネル No.19 J(0=∞=1)とi(虚数)とR(実数)の関係性-Youtube
令和の“今「1(ひとつ)」”は、源泉的なひとつの動きそのもの、大きさがない世界、復元数Jです。このひとつが生み出す和の世界が、本物のBeautiful Harmonyを奏でるのです。この世界は、哲学者イマヌエル・カントが1790年に刊行した哲学書『判断力批判』に出てくる「無関心からみること」と親和性が高く、真の美の具現化と相通じるものがあります。
カント哲学には、上記の「判断力批判」を含む三大批判があります。ひとつは、第一批判と呼ばれる「純粋理性批判」、第二批判の「実践理性批判」、そして第三批判の「判断力批判」の3つです。これらカント哲学を、今ここ、ひとつだけがある令和感覚とつなげて語りたいと思います。
まず、第一批判の「純粋理性批判」では、「人間の5感や脳の観点では、超越的世界や絶対世界、人間の究極の本質世界を知ることは不可能である」と言っています。つまり人間の経験や、その経験を元につくられた知識では、超越的世界や絶対世界を知ることはできない、と言っているのです。人間が何を知り(Know)、何を実践でき(Do)、何を希望できるのか(Hope)において、人間は超越的世界を知ることができないのだから、その世界を追求するのではなく、自然法則や物理法則の研究に集中すべきだ、と強調しているのです。
しかし第二批判の「実践理性批判」では、純粋理性批判で主張した立場を一変させています。純粋理性批判では、「自然法則や物理法則などの科学的真理(知性)を知ることが大事」だと強調していましたが、哲学的真理を強調する実践理性批判では、「超越的世界や絶対世界を取り入れる必要性」を強調しているのです。
人間が自然法則に支配されたり、自然法則を満足させるひとつの手段になったりすることはあってはならない、とカントは主張します。哲学の普遍法則の証明は難しいことですが、もし人間が巨大な自然法則の中で、機械の歯車や小さな部分のような存在に留まってしまえば、偉大な実践はできなくなってしまいます。そしてその結果、最高の善を成し得る“理想の王国”の実現も難しい、となるのです。
このことから、実践理性批判では、「神人合一した霊魂不滅の存在が人間である」と認定すべきだと言っています。人間が絶対世界とひとつになったとき、人間の最高の実践力が生まれるだろうと主張するのです。ただしこれは、宗教にはまり込んでしまうというような危険性も隣り合わせである、とも言っています。
さて、第三批判の「判断力批判」では、実践理性批判以上に、超越的世界や絶対世界からの判断の必要性を語っています。「本物の美的認識に達する絶対条件は、絶対世界からの判断である」と強調しています。
判断力批判においての美しさの判断は、どんな関心とも関係をもたず、「無関心状態で認識すること」だと強調しています。関心とは、「5感覚現存の表層と結合した満足状態」のことを指します。ですから「無関心な満足」は、5感覚現存の表層である「大きさがある状態」とは関係を持たない“無境界線の心から認識する世界”を基準に判断することだと言っており、これこそが「真の美」であるとカントは言っているのです。
さらに、真善美の中でとりわけ美の概念は、主観的世界を超えた客観的かつ普遍的な性質として既定(Define)可能であり、この美的認識センスは、他人にも「主観的な普遍性」を要求するというのです。そしてこの要求は、判断そのものの中に結合されており、分離不可能な世界だと言っています。
このカントの美的認識センスの主張を、nTechからみたらどうなるでしょうか?
私たちが普段、5感で認識している世界(時間・空間・存在・エネルギー)は、実はバーチャルな錯覚世界であり、映画のスクリーンのようなものです。そして、この錯覚世界である現実を成り立たせているのは、0.7%ほどのオリジナルマインドであり、一番深い心であるとnTechでは言っています。
参照:【令和哲学23】AI時代、哲学の最大の難題である「決定論」と「自由意志論」を融合する令和哲学)
この心を日本では「おもてなしの心」と表現しています。この心で“今ここ”をみたときには、すべてが美しく、偉大で神聖に感じられるようになります。そして、大きさのない心の世界から、大きさがあるエネルギーや物質すべての世界を見渡している状態です。このすべてを調和してしまう世界は令和そのものであり、Beautiful Harmonyそのものであり、日本人の美的認識センスでもあります。
人間は何を美しいと認識するのでしょうか?
認識主体と認識対象が切り離された「認識対象」の中では、普遍的な美しさの基準は存在できないため、美の規定は不可能です。美を規定するには、認識主体が「美に対する理想などの趣向や観点」を持たなければなりません。そして、美しさは必ず満足感とつながる必要があります。つまり、心が満たされる状態です。すべての認識主体が、「美に対する普遍的な共通の感覚」という根拠を持たなければ、普遍的な美の概念は成立しないのです。
つまり、人間一人ひとりが美を認識するためには、美を認識する共通の感覚を持っている必要があるのです。人間一人ひとりが共通感覚、普遍感覚を所有しているからこそ、お互いがお互いに要求する権利が発生します。このことから、真善美の中で美だけは、強制力を持つ価値概念だと言えるのです。
美的価値を強調する「令和」は、宗教や科学の限界を突破した令和美学で、世界の75億人を大統合に導く21世紀の中心理念になるだろうとnTechではみています。日本のわびさびである令和美学がリードする美学の時代・心時代の到来に、nTechが貢献できたら幸いです。
※注釈1:この「大きさがある時間・空間・存在・エネルギー」に対して名前を付けたものが、日本語や英語、フランス語などの「自然言語」と呼ばれるものです。nTechでは、この自然言語を「暗記言語」と新しく名付けました。そしてこの暗記言語(自然言語)も当然、大きさが存在することは明らかです。つまり、これまでのすべての知識体系は、「大きさや境界線がある固有名詞が、どう変化、運動、移動するのか」を語るものだったのです。
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