デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表作の1つとされる『裸の王様』。令和哲学シリーズ27では、誰もが知っているこの物語を題材に、話をしていきます。
まず、『裸の王様』のあらすじを見てみましょう。
ある王国がありました。
その王国には神秘な噂がありました。
それは、「愚かな人」「地位に相応しくない人」には見えない布がある、という噂です。
それは実は、神秘な布・奇跡の布ではなく、2人の賢い詐欺師の詐欺行為によって作られた噂でした。そのような布は実在しないのに、人々は「愚かな人・地位に相応しくない人には見えない布なんだ」と聞いた時に、自分が愚かな人と思われたくないので「美しい布ですね」と言ってしまったのです。
その結果、神秘な布・奇跡の布の噂が王国全体に広がったある時、このことが王様の耳に入りました。
実はこの王国の王様は新しい服を着ることが大好きな人でした。この王様はその神秘な布で服をつくることを臣下に命じ、その布をもっているという2人の詐欺師を宮殿に呼びました。
王の臣下たちは、誰も布は見えていませんでしたが、「愚かな人」「地位に相応しくない人」に思われたくないので、「美しい布だ」と言いました。
王様も実際は見えなかったのですが「愚かな人」「地位に相応しくない人」と思われたくなかったので、その布で私の服を作ってくれと命じるのです。
時が流れ、服が完成したと連絡が来て、王様は臣下たちの「美しい服だ」という感銘の声に影響を受けて、裸の上にその見えない服を着て民の前でパレードすることを決めました。
民衆は、神秘な布でつくった服を着た王様のパレードがあるという噂を聞いて見物しに集まってきます。そして、パレードを見ながら口々に「本当に美しい!」と褒めたたえ拍手をしました。
すると、ひとりの5才の子どもが「王様は裸だよ」と叫びました。
しかし、それを聞いた王様は知らんぷりをしながらパレードを続けます。
この物語を通して、今の時代を生きる私たちが何を学ばなければならないのかを2つの問題で整理しました。
この2つの問題は、AI時代を迎えた今、世界75億人が共通に解決しなければならない時代的な課題とも直結しています。
まず、1つ目の「時代の評判権力や中心価値がひとつに固定されることを恐れている「全体主義」への恐怖のトラウマの問題」からみてみましょう。
『裸の王様』という物語は、王政や君主制といった全体主義時代のお話です。中心価値として評判権力になってしまった、ひとつの観点に固定されてしまう全体主義社会では、絶対的支配権力をもっている王様に従うしかない民衆が、画一性・独裁制・独断性にはまり、嘘があふれる風潮になります。その結果、生産性が低くなり、団結力が低下することで国の土台が根本から揺らいでしまいます。
これを歴史の流れでみてみれば、人類は一人ひとりの観点の違いを認め、多様性を認めることを最優先する「個人主義」へと、全体主義は個人主義に移動するようになります。このように全体主義の問題を解決しようとして、個の意義や価値を重視し、個人の権利や自由を尊重するといった「個人主義」が胎動しました。
しかし、多様性を大事にする個人主義が蔓延した現代は逆に、時代の固定観念や中心価値が複雑になりすぎて、情報・知識・技術の価値、ビジョン・名誉・お金などの格差が大きくなり、不信、不安、不平不満があふれ、複雑なジグソーパズルがどんどん増えています。
また、守らなければならない秩序が多すぎて、共同体秩序を通しても統制、統合が不可能になっています。今や人類は、どうすればいいのかわからず方向性喪失している状態です。
では2つ目の問題、「時代の中心価値、評判権力の構築方式の問題」をみてみましょう。
現代は、マスメディアの権力や最先端の知識人の観点固定が大きな問題を作っています。
『裸の王様』をみてもわかるように、人間は世間の評判に簡単に負けてしまう生き物だということです。つまり「評判権力」に弱いのです。
そもそも人間は「脳の観点」に初期設定された状態で生まれ、脳に抗えないため、誰一人として自ら判断をし、主体性を持った意思決定をしたことがありません。
そのため、根底では自信が持てず、常に周りの目を気にしながら、機械的条件反射の因果システム、バイオケミカルアルゴリズムによる機械的な脳の判断に支配されているのです。すなわち、思った通りに行動するのではなく、行動したことを正当化させる思い込みの言い訳の論理の因果論理展開に忙しいのが、現代人の特徴です。ですから結果的にマスコミやSNSなどに踊らされ、情報知識に溺れてしまうのです。
このようなことから私たち現代人は、個人主義、観点の多様性の作り出す情報知識の過剰さ、複雑さや格差などによりどんどん繊細な神経と礼儀を使わなければならない関係構築秩序などによって、その重さで今にも窒息しそうな息苦しい時代に生きているといっていいでしょう(窒息社会)。
変化のスピードは激しさを増し、多様性や複雑性にあふれ返る中、何をどう選択していいのかもわからず混沌、混迷を極め、また、格差の広がりもとどまることを知らない競争社会の中で、人間のIQをはるかに上回る人工知能(AI)の競争に投入されているのです。
人間は、「脳に抗えないまま“本来の心”が脳に敗北した状態で生きる存在」ですが、その人間にさらに時代の荒波が追い打ちをかけているのです。ですからこの息の根が止まるような窒息社会に、息を吹き返して呼吸ができるよう、起死回生させる技術・価値・ビジョンがいま最も求められています。
二つの問題である時代の中心価値、評判権力の構築方式にどんな問題があるのか確認する必要があります。
そんな中で、哲学界のロックスターの異名を放つドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエル氏はこのように述べています。
「すべてを包括して、完結させてしまう“たったひとつの真理”は存在しない」と。
このように全体主義を排斥、排他するような宣言をし、また「多様な観点をマネジメントするのが政治の用途、機能、役割であり、観点の違いを認定することから出発するのが思想自由である」と述べ、「人生の意味は、無限の意味と対決することの行為である」とも言っています。
ガブリエル氏のこの3つの主義主張は、全体主義における「価値観、評判権力がひとつに固定されてしまう恐怖」から自由になっていないため、残念ながら全体主義と個人主義の問題を超える知恵には到達できていません。
ガブリエル氏のこの主義主張は、ドイツ統一のナチズム、全体主義に対するドイツの恐怖が完全に解決されていないことを読み取ることができます。
これは日本も同じで、全体主義に対するトラウマと恐怖が残っていることをヒシヒシと感じています。なぜならば“たったひとつの真理”と聞けば、多くの日本の方は「怖い」「それは全体主義ではないか?」などとアレルギー反応を示すでしょう。
しかしnTechと令和哲学が主義主張する“いまここひとつだけがある”(たったひとつの真理)は、この全体主義や画一的なものとはまったく異なります。それどころか、個人主義が認める一人ひとりの観点を大事にする以上に、人間一人ひとりの尊厳の価値を認めているのが令和哲学、nTechです。すなわち一つの観点に画一的に知識を統一するものではなく、あらゆる観点の違いを認め合い、すべての観点を楽しみながら次元上昇させ、知っている世界から自由(無知の完全性)であり、世界の根源を知らせる源泉的な動きであり、真理の博愛そのものになれるのが令和哲学、nTechです。
人間たちが全体主義、画一性という蛇に驚愕し逃げようとする中で、個人主義・複雑性・孤独というライオンの群れの獲物になっていく頂点に立っているのが、地球上に住む人類75億人のいまの現在地です。“全体主義”という蛇だらけの洞窟に戻ることもできないし、“個人主義”というライオンの群れがあふれる場所でただ獲物になってしまうことも苦しいという進退極まる状況(絶体絶命状態)をどのように突破するべきかが、この時代の中心課題でもあります。全体主義の恐怖、個人主義の孤独を同時に解決していくことを、明々白々に実施しているのが令和哲学であり、nTechのビジョンであり、SNS3.0のビジョン価値です。
現実やあらゆる現象は、観点が生み出す結果にすぎず、“実在しない虚構”です。
観点とその観点が生み出す結果(現実、現象)は、脳の観点に支配された“心の変異体”なのです。観点と観点が生み出す結果は、数学で表現すれば1対1の対称性で成り立つもので、言語学で表現すれば、この世界はS(主語)とV(述語)であり、この1対1を生み出す第一原因が「源泉的なひとつの動き」です。
そしてこの源泉的なひとつの動きは、無限大対無限大(∞対∞)の対称性を持った、完全循環運動であるから1対1の対称性の因果の論理を含めて超え、包越してしまうのです。そして全体主義と個人主義の限界を突破し、イメージ不可能なものに対する価値をイメージ可能なことに対する価値より上位ポジションにセッティングして、無知の偉大さ神聖さを認定することが、令和哲学、nTechの認識技術です。もちろんこの最高の頂点の絶対性に到達するためには必ず相対世界のすべての1対1の対称性の因果の仕組み、すなわち変化の仕組みを明白に説明することができる主義主張であることだと、令和哲学とnTechでは語っています。
全体主義の恐怖を超え、多様性や複雑性にあふれ、格差や変化、秩序などが激しく変わってしまうこの“窒息社会”を救済できるのは、全体主義と個人主義の良さを生かし、悪いものを100%排除し、宗教、数学、科学、哲学、美学など人類が蓄積した既存の知識すべてを包括し完結してしまう、“たったひとつの真理”が、現代はとても必要な時代だといえるでしょう。そしてそれが「令和哲学」でもあります。その“たったひとつの真理”を土台にしてこれまでの繋がり方の限界を超えた、まったく新しい関係構築方式、SNS3.0、メタプラットフォーム技術を提示しようするのがnTechなのです。
先ほどお話した2つの問題の“評判権力の構築方式”を、ほんの一部分の人間たちが決定するものではダメだ、と令和哲学では言っています。そしてできるだけ多くの人たちが存在して、情報や観点やビジョンがいつも公開され、批判を受け入れ、進化発展し続け、そして新しい技術、商品、価値、文化が終わりなく次元上昇することができる共生共栄の討論の場。このSNS3.0、メタプラットフォーム技術を私たちは全世界に提案します。
「あることやあるものを教える者」は、本物の教育者ではありません。「ある事件、仕事を起こす実践行動を通して教える者」が本物の教育者になれるのです。
『裸の王様』の物語の全体主義時代から、現代のような個人主義や自由民主主義が胎動しました。
しかし時代は、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が語る『ホモ・デウス』時代にまっしぐらにひた走り、AI(人工知能)が大活躍しながら多様性や複雑性、格差がより一層ひどくなる窒息社会を迎えています。
そんな今、どのような実行や実践行動を行うことが「本物の教育者」といえるのでしょうか?そして、どうすれば世の中にこれらがあふれるようにできるのでしょうか?このことから、私はSNS3.0を提案します。
童話『裸の王様』では、「愚か者や、自分の地位にふさわしくない者には見えない、不思議な布地を織ることができる」という詐欺師がつくったフレームに束縛され、虚構の中心価値を誰もが受け入れ騙され、踊らされてきました。
私たちが生きるこの現代も虚構があふれ錯覚だらけです。しかしそれらは、時代の中心価値をつくるメッセージでもあるのです。最先端の知識を生産する知識人の使命感、それらの知識を消費する消費者、これらを生み出す評判権力をいかに次元上昇させ、賢い生き方を選択できるようにさせることができるのか?これらがこの時代の一番優先して解決しなければならない中心課題であることは間違いありません。
ここでは、今までずっと語られてきた『裸の王様』のイメージとは正反対のイメージを使うので混同しないでください。
これまでは“観点と観点の解析の結果を絶対視”しながら、“観念の服を着続けること”にしか、人間は関心がありませんでした。しかし今からの時代は、正反対への方向性転換が必要です。それは観点を次元上昇させ、観点のゼロ化状態になることです。
つまり、どんどん“観点の服を着る”のではなく、どんどん“脱いで”しまうことです。すべての観点の服を脱いだ時、まっさらな裸、観点ゼロ状態になった時、それが“たったひとつの真理”であり、令和感覚、令和状態です。本物の教育者が量産されるシステムによって目覚めが起こるのです。
”虚構の基本単位であるS・V(主語・述語)がひとつも実在不可能な心の状態”になっている本物の教育者・この歴史を変える本物の教育者を量産させるシステムが具現化できる場所が、日本であることは間違いありません。75億全人類を目覚めさせる教育革命を実践する日本のミッションに、nTechが貢献できたら幸いです。
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令和哲学は、心の時代をリードする本物の教育者の量産システム、相応しいリーダーシップのモデルとして「SNS3.0」「メタプラットフォーム」という道具を、令和元年とともに出発させようとしています。本日、令和元年10月13日は、「東京Re・riseフェスティバル Dignity2.0 ×SNS3.0」で、その構想をお話させて頂く予定です。ご興味のある方はぜひご来場ください。
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