2011.08.01 コラム

情報インターネット社会と自由競争経済社会の限界を突破し、未来社会をどう構築するべきか。それがJAPAN MISSION・JAPAN DREAMの本質 Part1

3・11の大震災以降、日本社会全体の行き詰まり感が時とともに深刻化してきています。
政治の混迷に加え、原発問題から派生している産業構造そのものへの打撃、出口の見えない円高からくる輸出業への懸念など、巨額の復興財源が必要とされる中で、明るい兆しはなかなか見えてきません。
この苦境を打破するために、今、私たちは何をどう変化させていけばよいのでしょうか?
日本の中の状況だけではなく、日本が置かれている現代資本主義社会の文明構造の現況とその問題点を広く深く眺めながら、私なりの診断と処方をお伝えしてみたいと思います。

今の世界を概観したとき、象徴的に見て人体に例えるならば、西洋は「頭」を、東洋は「体」の役割を担っていると観ることができます。
近代社会では、西洋を中心に飛躍的に発展してきた学術の体系を土台に、政治、経済、科学、産業、教育など、多くの分野のシステム、仕組みが構築されてきました。
特に経済の領域においては、金融資本主義のルールを先導したアメリカを中心軸として、世界全体が資本主義の自由競争経済のプレートにのせられてきました。
その総本家であるアメリカの経済がおかしくなってからは、全世界的に雇用問題が深刻化したこととあわせて、ギリシャに見られるような国家倒産の危機も飛び火しています。
さまざまな理論、思想、システムのアイデアを生み出し、それを現実の経済構造に落とし込んできた西洋ですが、それがひとつの時代の臨界期を迎えていることは、既に多くの識者が指摘している通りです。

一方東洋では、戦後日本のMade in Japan(メイド イン ジャパン)の力が全世界を席巻したことに続き、アジアの新興国の目覚ましい経済発展が相次ぎました。
今日の韓国や中国、東南アジア諸国の発展は、戦後の苦難を踏み越えた日本の力なしにはありえなかったでしょう。
ところが、「頭」の役割を担ってきた西洋に対し、その西洋がつくるシステムの中で製造業にひたすら邁進してきた「体」である日本とアジアは、自ら能動的に新しい世界標準のシステムを考え、構築し、発信することなしに、「頭」と「体」の役割を固定させたまま前進してきてしまいました。
一言でいえば、考えることなしに、西洋主導の作られたシステムの中での経済発展を重ねてきたと言えるでしょう。
これによってつくられ、固定してしまった現代の文明構造の問題そのものを革命的に変化させる新しいアイデア。それを東洋から出していく必要があるというのが私の主張ですが、その内容に入る前に、もう少し現代文明構造の問題点を整理してみましょう。

今、世界は、「頭」である西洋がリードして構築された「システム」によって支配され、動かされています。
個人、企業、国家ともに貧富の格差が広がりつつある時代の中で、先進国日本では、無気力、無感動、無目的の個人が増え、生きるエンジンそのものがなくなって行っている状態が見られます。
モノや金、情報が溢れかえっている一方で、生きる原動力が失われて行く先進国日本を尻目に怒濤の経済発展を続ける中国もありますが、やはり深刻な国内の貧富の格差と共に、なによりも全世界的な環境問題と中国の製造業の問題が重くのしかかっています。

つまり、つくられたシステムの中で今までの延長線上のモノづくりを繰り返していても、未来への明るい展望は決して見えてこない時代状況が時々刻々と明白になって来ているということです。
このような時代に対して閉塞感や憤りを感じる方もたくさんいる中で、なぜ革命的に状況を好転させる変革への意志やマグマが生まれてこないのでしょうか?

私はその理由のひとつは、今の世界のシステムが、明確な支配権力が見えない構造になっている点にあると考えています。
歴史上、大きな政変や革命が起こった際には、民衆たちが置かれているシステムをコントールしている中心の支配権力がはっきりとしていました。
ところが現代文明構造を覆うシステムの中では、支配の中心点が見えず、支配者の姿がはっきりと見えず、がんじがらめに張り巡らされたシステム全体としての支配権力が機能している状態です。
そして、いわば支配権力が見えない大衆文化の中で、一体何をどう考えればよいのか、お互いの意見や観点を深く交流させながら新しい時代への団結意識を作り出して行くのが非常に困難な時代になっています。
その背景には、
1.自由経済社会
2.情報インターネット社会
という二つの決定的な要素があり、それらの複合効果が、社会の根本変革をより困難にしているのです。

自由経済社会では、かつての封建社会の良い側面としての貴族文化、階級文化、エリート文化が成り立ちません。すべてが大衆的に一般化、画一化され、高い志や精神性を持った社会への責任意識、深さのある文化芸術を花開かせる土壌が育ちにくい状況を生み出します。
人間性の深さを育みにくい自由経済社会における中心価値は何かというと、「お金」につきます。
「お金」さえあれば、というのが人間の生きる中心価値となり、そこを基準点として煽動される時代の流行、社会全体を覆う雰囲気、そして足の浮いた軽薄なお祭りさわぎのような空気に、大衆が支配され流されやすくなってしまいます。
人間が生きる上での幸せや成功の価値観も、「お金」を基準点に計る思考方式にいつの間にか慣らされてしまい、金銭欲、物欲、名声欲に支配されやすく、なにより、弱肉強食的な自由競争、自己中心的なエゴ意識を是としてしまう生き方になってしまいます。

さらに、情報インターネット社会の問題がこれに拍車をかけます。
情報インターネット社会の一番の問題は、何が正しいのかわからなくなり、考える力を奪われてしまうこと、考えられなくなることです。
全世界の莫大な情報が刻一刻と移り変わり溢れ出してくるインターネット上で得られる情報は、人間の思考と判断基準を混濁させていきます。
頭の中に入っては抜け、入っては抜けていく多種多様な情報は、人間の深く粘りのある思考力を養うのに適していません。
反面、「聞いた事のある、知っているつもりの情報」はまさしくデータとして脳の中に蓄積されていきますから、人の話を深く受け入れる心のあり方を作るのが難しくなってしまいます。
さらに、ちょっと思いついたり見聞きして個人ブログに書いた内容も、何十年専門的に考え抜かれて言語化した内容も、表現が似ていれば、インターネット上の「情報」としては同質のものとして受け止められてしまう問題もあります。
深く長い思考のプロセスが省みられずに無視されて、お手軽お気軽な単なる情報としてしか受容されないデータばかりを日々脳に集めたその結果、一体何が起こるでしょうか。
それは、自由競争の背景もある中で、“自分が知っていること”、“自分の判断基準”への固執が強くなる意識状況が生まれていくということです。

私は、有史以来人間社会がいっこうに秩序だったものにならないカオスの根本原因は、人間一人ひとりの根本的な判断基準の問題であることを様々なところでお伝えしてきました。
自由経済社会と情報インターネット社会は、エゴ的な自己中心の判断基準を強め、人間一人ひとりの心の疎通や交流を遠ざけてしまう危険性を内在しているのです。
そして、そういった状況が土台にある資本主義の価値観の中で、人々の活動をつくりだすために今まで企業がやってきたことは、
1.お金
2.モチベーション
3.インセンティブ、
4.責任感や倫理道徳を持たせること、
といった方向付けでした。
お金のために、インセンティブのために、といった、「〜のために(for)」という原動力でしたが、それではもうこれ以上エンジンがかからず、人によってはこの資本主義社会に疲れ、心がすり切れてしまっているケースも見受けられます。
さらに、アメリカ、ヨーロッパがコントロールしてきた自由経済社会と情報インターネット社会は、知的財産、特許戦争の時代の主導権も握る時代に入っていますから、知識基盤社会のロイヤリティもこのままでは全てアメリカがとっていく流れができてしまいます。