2012.04.10 コラム

観術、及びHITOTSU学、NR JAPAN㈱に対する宗教・カルトの噂について

私が16年前に韓国から来日して感じている日本の特徴の中で、とても不思議に感じることがあります。それは、世界と日本の大きな違いの一つでもありますが、日本社会には、宗教に対して恐怖心や嫌悪感を抱いたり、あるいはタブー視したりする雰囲気が蔓延しているということです。

国際社会において、信仰を持たない人は一般的にあまり信頼されません。宗教の信仰を持っている人は、倫理道徳的に教育訓練されていると思われていますから、信仰を持っていない人よりは、持っている人の方が信頼、安心されるのです。仕事でも、信仰を持っている人が優先的に採用されるということもしばしばあるほどです。

ところが不思議なことに、日本では全くそれと正反対の現象が起きているのです。多くの日本人は、このような日本独特の現象に対して客観的に観る目を持っていないように感じます。

今回、この日本独特の現象について、観術を活用して私なりに整理してみたいと思います。さらにその現象とつなげて、観術及びHITOTSU学、NR JAPAN株式会社に対する宗教・カルトの噂についても、その真実を皆様にしっかりとお伝えしたいと思います。

●建前文化が生み出した無縁社会

まず日本社会は、宗教に限らず、様々な事柄に対する恐怖心を根深く持っていることを感じます。はじめは、原爆による戦争の敗北から生じている感覚なのかもしれないと思っていましたが、より本質を観た時に、日本独特の「建前コミュニケーション」からくる人間関係の構築文化が大きな影響を与えていることに気付きました。

日本では「思っていること」と「実際に口に出して言うこと」が、100%一致しない場合がとても多い(90%以上)ように感じます。もちろん、100%一致までいかなくとも、国によって60~70%くらいのことはあるでしょう。

しかし日本では、思っていることと全く正反対の表現、例えば、嫌いな相手や物事に対しても好意を示すといったことも平気でしてしまうような建前コミュニケーションが蔓延しています。

さらに、「その何が悪いの?」と思う人もたくさんいるくらい、建前が当たり前の社会になっています。

このように「思っていること」と「言うこと」が一致しない人たちの中にずっと身を置いて人間関係を構築していると、たとえ相手を理解しようとして、相手の立場や環境やポジションに観点を移動してみても、相手を理解することができません。

なぜなら、相手自ら、自分自身の主義主張が定まっていない状態だからです。

日本社会では、相手の立場やその場の条件・状況に合わせて表現を変えること、つまり、空気を読む、場をわきまえるといったことが当たり前になっているため、自分の本心が「Aに合わせているa」なのか、「Bに合わせているbなのか」、「Cに合わせているcなのか」、わからなくなってしまうのです。

この日本特有の建前文化は、人と人が心から深くわかり合うことは不可能に近い文化だと言えるでしょう。

その結果、助けてほしくてもそれを家族や友達に言えない、すなわち、家族がいても家族がいない、友達がいても友達がいないという状況に陥り、常に孤独や寂しさを抱えたまま一人で生きなければならない無縁社会の日本になっています。

相手の立場になっても相手が理解できない、という人間関係が続いている環境の中にずっと身を置けば、人はどのようになっていくでしょうか?

それは、相手を理解できない無知からくる「恐怖」の感情・エネルギーを蓄積するようになります。

それに加え、人間関係が面倒くさくなって逃げたくなる「逃避本能」も蓄積されていきます。人間関係から逃避してペットに関心を持つ日本人が多いのも、このことと関係していると思います。

韓国では、思っていることをはっきり言う文化があります。この場合どうなるかと言うと、相手の立場になれば相手のことも十分理解できるけれど、自分の立場も重要だから負けることができない、というジレンマに陥ります。

そうなると、「憤怒」の感情と「闘争本能」が蓄積されていきます。日本人より韓国人の方が寿命が短いのは、ここに原因があるのかも知れません。

憤怒の感情や闘争本能より、恐怖の感情や逃避本能の方が良いのだと言いたいわけではありません。

人と人が心からわかり合えないようにさせる本質的な限界を突破しない限り、真の愛と平和と正義が川の水のように流れる人類社会は永遠に訪れないのです。

●恐怖心を生み出す「考えが走る道」

では、なぜ人は恐怖心を持つのでしょうか?

人間は、動物と違って考える存在です。

考えを使って、「人間とは何なのか」「人間は何のために、どう生きるべきなのか」といった質問に対する答えを探そうとする存在なのです。

「人間とは何なのか」を知るためには、宇宙の原理、すなわち宇宙自然のあり方を知る必要があります。

宇宙誕生及び、銀河系・太陽系・地球・植物・動物の誕生メカニズムを知ることで、はじめて、人間とは何なのかの答えを得ることができるのです。そして、宇宙の原理を知ることで、人間の存在意味と存在目的がわかり、「人間は何のためにどう生きるべきか」を自分自身で整理することができるようになるのです。

こうして、「自分はどこから来て、どこへ行くのか」という自己認識、または神認識という存在の根源を確認しようとするのが人間なのです。

このことを別の表現で言うと、人間は動物と違って、「身体が走る道」をつくるだけではなく、「考えが走る道」もつくっているということです。

例えば、あなたが男であること、あるいは女であることは、どのように証明できるでしょうか?

多くの人の考えは、「自分は男じゃないから女だ」「女じゃないから男だ」というように、選択肢が2つしかない二分法的な論理展開の構造になっています。

そもそも人間は誰もが生まれた時からずっと、自分の知らない間に脳の中につくられている「考えが走る道」を使って考えています。「考えが走る道」は、因果律や方程式や一般常識などが当てはまります。

道がないところに車が走ることはできないのと同じように、「考えが走る道」がないところでは、人間はどんな判断も思考も不可能です。

問題は、自分自身の「考えが走る道」を自らつくることができないまま、誰かがつくった既存の道を知らず知らずに使い、さらに、その考えが走る道を行ったり来たり反復する過程で、その観点だけに固定されてしまうことです。

これは、自分のすべての判断と思考が、自分の知らないうちに誰かがつくった「考えが走る道」に支配されていて、まるで操り人形のように条件反射的な反応しかできないまま、思考範囲が固定されてしまっているということです。

この状態では、どんな情報データが入っても、出てくる結論は決まっていて、自由な発想や創意性は生まれません。

また、多くの人は、自分が使っている「考えが走る道」がなぜどのようにつくられたのか、明確な根拠も理解していない状態で、ただ漠然とそれが正しいと信じ込んでいる場合がほとんどです。

このような、根がしっかりとしていない精神状態で自分と違う「考えが走る道」を使う人と出会った時に、人は訳もわからず恐怖を感じるようになるのです。

このことが、日本人の宗教に対する恐怖心にもつながっていると私は観ています。

人間は、自分がどんな存在なのかを知りたいと願っていますし、真実の自分に見合うライフスタイルを求めています。しかし、自分の「考えが走る道」に観点が固定された状態では、「自分が知っている世界」から自由になれません。

「自分が知っている世界」に束縛されたまま、お互いがお互いを決めつけたり、相手を束縛したりしながら、自らの自由も剥奪されたままで、孤独で寂しい人生を生きているのが現代人なのです。

●問題の本質はアンバランス

このような現状の中で、人間の精神性そのものに対する体系的な研究は、今なお幼少期の段階に留まっていると言えます。

21世紀になった今も科学技術は終わりなくイノベーション(革新)し続けているにも関わらず、人間の精神能力は、かなり低いレベルの自己中心性(エゴ)に留まっており、聖人や賢人と呼ばれたソクラテスや釈迦、イエス等がいた時代から、人間の精神は根本的には発達していません。

このアンバランスこそ、不安、恐怖、危機の本質なのです。

人類歴史を観たときに、計量可能な物質の世界(不連続の世界)は、数値化・データ化・方程式化され、科学技術の進化発達が飛躍的に起きましたが、その一方で、計量が不可能な精神世界(連続の世界)は、2000年経ってもあまり発展がなく、物質世界と精神世界の格差が広がってきているアンバランスな状態なのです。

今の時代、このことを解決するためには、精神能力及び、認識技術・認識能力の飛躍的進化を可能にさせる新しい道具・知識・技術の発達が必要ではないでしょうか?

今までこのジャンルは、宗教や思想、哲学の水準で留まっている現在地があります。

実際、聖人・賢人・覚者のようにしっかりと成長・成熟した精神の進化発展がないからこそ、人類はエゴを肥大化させながら、分裂、摩擦、衝突、対立、闘争、戦争、破壊、征服、嫉妬、執着、差別、偏見、憎しみ、奪い合い、相対比較、自己否定、他者否定、依存、甘え、責任転換、責任放棄、排除、無関心など、荒んだ文化文明を続けてきているのです。

人間の精神能力の進化なしに、人類の未来はあり得ません。

アインシュタインが「問題をつくった意識と同じ次元の意識では、問題は解決できない」と言ったように、今までの文化文明の問題をつくった今までの精神よりも高次の精神へと次元上昇しなければ、カオスとなっている現代文明の危機を突破することはできません。

では、どうすれば人間の精神能力を進化させ、次元上昇させることができるのでしょうか?

●人類が発明した最高の道具とは

これまで人間の精神能力を高めてきた代表は宗教ですが、次の根本問題は未だ解決されていません。

1.自己中心的な神頼み、依存心理にはまる。

2.ドグマ化された教理を信じ込むことで、他の論理を受け入れられない偏狭的、独断的、独善的、排他的な精神に陥る。

3.精神の抑圧と支配によって、主体的な自己の無限の可能性の開花の妨げとなる。

4.霊魂や死後の世界を説く教義と、数学や物理学を中心とした学術体系との疎通、交流が困難で、その間の格差を埋められない。

5.信念の違いから互いに非難、反目し合い、衝突や宗教紛争を生む。

これらの問題は、精神能力の修練自体も自分たちの宗教の中だけの閉鎖的なものに留まりやすくなってしまうことを意味しています。

観術は、これまで精神能力や認識能力を高めてきた、暗記言語を土台とした宗教・哲学・思想とは全く違う道具を活用し、上に述べた精神世界の限界を100%突破できたと自負しています。

そう言い切れる根拠は、「イメージ言語」という疎通交流の道具を開発することに成功したからです。

もし人間が発見・発明した道具の中に「言語」というものがなかったら、今日の宗教・思想・哲学をはじめ、科学技術、文明、多様な学術・知識は、その存在の根源が消えてしまうでしょう。それほど現代文明に多大な貢献をした「言語」という疎通交流の道具の重要性と価値の高さを改めて認識する必要があります。

今までの人類は、この「言語」の持つ本質的な価値を進化・イノベーションさせようとする努力は全くと言っていいほどしてきませんでした。そのような中で、観術は人類が発見発明した最高の道具である「言語」の進化・イノベーションに挑んだのです。

今後、多くの人たちの厳しいチェックを通過すれば、精神能力を真の意味で高めることができる新しい言語「イメージ言語」が70億の人類に認められ、世界共通の新言語、グローバルスタンダードとして位置付けられるでしょう。

この「イメージ言語」は、今までのようなローマ字や平仮名やハングルなどのような文字の言語とは全く異なるもので、イメージをそのまま伝達できるものです。

この「イメージ言語」を活用した観術は、自分自ら「考えが走る道」を一旦ゼロ化(無化)した上で、「考えが走る道」を自由自在に創建できる能力を提供しています。この能力を活用することを通して、「自分が知っていること」に支配されない大自由の心を獲得することができます。そして、他人の判断・審判に対しても大自由の心を獲得できます。

また、宇宙の原理と歴史文明の流れに対しても目覚めることができますし、「人間とは何なのか」「何のためにどう生きるべきか」という問いに対する答えも明々白々に知るようになります。そして歴史上の聖人・覚者・賢人たちが、なぜ真理をそのような形で表現していたのかということも、その人たちのイメージとつなげて明確に確認できるようになるのです。

●宗教・カルトの噂についての真実

この観術の意味や価値を理解していない状態で、又、観術及びHITOTSU学、NR JAPAN㈱に対して誠実な態度でその内容を調べようともしない状態で、私達のことを宗教・カルト・洗脳の勧誘というマイナスイメージで規定している人たちを見ると、一瞬悲しい気持ちになるときもあります。

その中でも、私(Noh Jesu)を統一教会の人間だと規定し、観術を統一教会の名前を変更しただけの組織だという、とんでもない噂を広げている人もいます。

以前、グローバル人材を育成するために行った私達の教育サービス(教育プログラム)の一環として、世界の3分の1の20億人の思考論理展開の根本を成すキリスト教の信仰を理解するプログラムがあったのですが、ある人達がその一部分を変形・歪曲して解釈し、まるでNoh Jesuを信奉する宗教組織のように規定してきました。そして民事裁判まで起こされた事もありました。

しかし、彼らの主義主張がすべて虚偽であることが明々白々になっているにも関わらず、未だにその歪曲された情報がインターネット上に出回っている状態です。

「観術」という新しいもの、言ってみれば異質なものに対して不安や疑念を抱いたり、宗教に対する無知から不信や恐怖心を持ったりするのは、仕方のないことだとは思います。

しかし、自分が知らないことに対して安易に宗教・カルトと決めつけて吹聴するような行為に対して認識の浅はかさを感じてしまいます。

私のことを「宗教・カルトの教祖」と主義主張する人たちは、そもそも宗教・カルトがどういうものなのか、それがどんな害悪や弊害を与えているのかをわかっているのでしょうか。

観術という認識技術は、まさに宗教・カルトの弊害である前述した5つの根本問題を克服するために開発されているものなのです。

この事実を誠実に調べもしないまま、歪曲された情報を量産し、広げている人たちは、自分は正義に基づいた行為をしていると思い込んでいるのかも知れません。

しかし歴史を見れば、後になってそれが浅はかな判断や行為であったことや、それが愚かな正義であったことを教えてくれる教訓が山程あります。

今の時代は文明のプレートが変わっていく大転換期です。天動説的なものの観方が地動説的な観点に変わってしまうくらいの時代なのです。

そのような時に、自分の常識やこれまでの時代の常識を確信し過ぎて、誠実に事実の確認もしないような、思慮分別のない姿勢・態度は改める必要があるのではないでしょうか。

観術は、40年以上、一人の人間が「真実の世界は何か」「宇宙の原理は何か」を知るために人生を懸けて追求し、その真実を発見した上でそれを共有し、多大な方々の応援と想い・エネルギーを投入して頂いて創り上げた時代へのプレゼントそのものなのです。

これが宗教・カルト・洗脳の世界ではないことは断言します。
そのような世界とはとても遠い、真実の世界です。

歴史を観ても、真実は必ず勝利しています。

この文章を読んでくださっている皆様に感謝を申し上げると共に、観術に対する正しい理解を心よりお願いしたいと思います。観術が描く希望とビジョンを皆様と共有共感できる日を、楽しみにお待ちしております。

Noh Jesu